意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

理想の自分

ヒトコトへの回答⑪:なりたい自分像 - Letter from Kyoto


上記の記事を読んで自分の中に「理想の自分」てないなあと思った その前に川添さんがなりたい自分をすぱっと言っているのも意外なかんじがしてすぱっと言っているから気持ちがよいかんじがした また質問の中の「なかったことにしているだけではないか」という言葉も興味深かった というのも私は昨日くらいまで脳科学の本を読んでいてそういうのってたぶんどれも同じように「記憶ってあてになりませんよ」みたいなことが書いてある だから「なかったことにしてるだけ」と言われてみるとそうかもしれないという気になってかつて自分も理想の自分・なりたい自分というのがあったという痕跡をかんじた というか過去の自分にアクセスするのはもう不可能で結局どう評価したところで的外れというかおそらく過去の自分というものがそれを知ったら悪意をかんじるくらいの見方を過去というものに対してしてる気がする 「なかったことにしてる」というのはむしろ「(なかったことにすることが)普通なのだから私たちは過去なんて好き勝手書き換えていい」という非常にポジティブな気持ちになれる言葉だ


私も理想の自分がないというのはつまりそれになれなかったときに傷つくのが嫌でまた人に「どうせ無理ですよ」みたいに言われて傷つくのが嫌だからもう意識の中に「理想の自分」が出てこないようにしているだけのような気がする でも私はもう自分を悪く言うことに疲れてしまったので疲れないために「理想」を遠ざけているぶぶんもある 今だけを視野におさめる人がいちばん幸せなのだ しかしそういう考えがただ快楽に溺れる・ただ楽しいことのみを追求すると自分の中でイコールにならないのは何故だろう


私も川添さんと同じように多くのことを知りたいと思う また、より本質的なことを知りたいと思う しかし「本質的」というのはどこかいやらしい響きがあってそういう合理主義みたいなのとの距離の取り方について私はいつも途方にくれてしまうのです