意味をあたえる

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兎と亀(4)

兎と亀の決闘は、初めはサークル内の話でしかなかったが、徐々に噂が広がり、一部の生徒、さらには一部の教授の耳にまで入ることになった。ある日兎はアメリカ経済概論の授業の後に、出席カードを出す際に教授に呼び止められ、君が兎君か、と声をかけられた。某一流大学から最近引き抜かれた老教授は、聞き取りにくい口調で、今時珍しい若者だ、悔いのないようにがんばれ、と兎を励ました。

兎と亀が決闘を行うことを知っている者も、そこに稲子が絡んでいることまでは知らなかった。そのため、様々な憶測が飛び交った。男同士の勝負なので女が絡んでいるのは察しがついたが、負けた方が学校を去るなどの尾ひれがついた。ひどいものでは、兎が負ければ耳をむしられ、亀が負ければ甲羅を割られる、と言い出す者までいた。

部長の提案で、決闘は10月の最初の金曜日に行われる事になった。さすがに夏休み直前の今やっても、慌ただしいだけだし、この暑い盛りでは、走る方も応援する方も過酷であった。兎は亀にそれでもいいかと聞かれたが、どうでもいいことだった。決闘なんてしてもしなくてもどうでもよかったし、しても何の小細工もせずに圧倒的な差をつけてゴールするつもりであった。


教授に励まされた次の日、今度は名も知らない女生徒に学食のカウンターで突然「卑怯者!」と罵られた。わけもわからず女生徒の顔を見ていると
「あんな亀さんみたいな社会的弱者をいたぶるような真似をして恥ずかしくないんですか?競争だなんてどう考えてもアンフェアじゃないですか」と女は頬を赤くしてまくし立てた。鼻が低くて茶色の髪が肩まで伸びていた。見開いた目は充血していた。手にはお盆を持っていて、威嚇するようにそれを上下に動かした。列の後方にいたため、お盆の上にはまだ何も載っていなかった。兎のお盆には既にチャーハンが載せられていた。女に何か反論しようかと迷っているうちに、列から押し出され、兎は味噌汁を取り損ねてしまった。結局兎は何も言わずにその場を立ち去ることにした。女がさらに何か言ってくるのではないかと思ったがそれ以上声は聞こえなかった。人が半分ほど埋まったテーブルを縫う様に歩いていると、背中に笑い声が聞こえたが、それが自分に対する嘲笑なのかどうかは判断できなかった。いちばん隅の席に着くと、自分の顔に血液が集中しているのがわかった。カウンターの様子が気になったが、女がこちらの様子を伺っているのではないかと思うと、見ることができなかった。兎は平静を装い、チャーハンをゆっくりと口に運んだ。頭の中では女が発した「アンフェア」と「社会的弱者」という単語が渦巻いていた。チャーハンには味がなかった。

三分の二を食べ終えたところで、兎の思考は落ち着き、徐々に女に対する怒りがわいた。女の主張は完全なお門違いである。「兎と亀の決闘」という記号化された情報をインプットされた女の脳は、「社会から守られるべき亀に理不尽な勝負を無理やり受けさせる、身勝手で利己主義な兎」というバカ丸出しのストーリーを作り上げたに違いない。”社会的弱者”という言葉を選んでしまう時点で低脳さが窺い知れる。傲慢さと言ってもいい。亀の境遇に同情している風を装うが、その正体は、結局何不自由ない自分の人生を再確認するためのツールとして亀を利用しているのである。仮に亀が摂食障害になって、本当の弱者となったとしても、この女は最後まで食事を亀の口にまで運んでやったりしないだろう。亀の乾燥しきった唇を見て水を欲していることがわかっても、嫌悪以外覚えない。兎は余程女のところに亀を連れて行って、事情を順序立てて説明しようかと思ったが、すぐに無駄だと悟った。女の猿並みの脳みそは事実は認識できても、そこから導く結論は「意味不明」に決まっている。亀も兎と同じサイドに配置しなおし、同情から非難の対象に変わるだけだ。

おそらく兎と亀の決闘を知っている大多数の者はこの女と同じだ。だとしたら勝負なんて初めからする意味がない。兎はスタートと同時にその場に寝転び、亀を勝たせてしまおうと思った。わざわざ見物に足を運ぶ者たちの目的は、弱者に鞭を打った兎に非難を浴びせることだ。愚かな見物人たちは思惑を裏切られ、当惑するだろう。隣の者と小声でささやき合いながら、兎の長い耳や赤い目を盗み見る。そして、こんなくだらない勝負を見に来てしまったことを後悔する。わずかな時間に過ぎないが、見物人の人生のいくらかを無駄にできたと思うと、痛快だった。

チャーハンを食べ終えて、水を一口飲むと、兎は椅子の背にもたれかかった。ひと息つきながら周りのを見渡したが、女の姿は見えない。今の兎に怖いものはなかった。食堂は兎が入ってきたときよりも人が多くなっていた。食券を持って並ぶ列も入り口の外まで続いていた。学生たちの流れは緩慢で、対象的に厨房は慌ただしかった。一番端の中年女の給仕が、乱暴な手つきでカウンターに味噌汁を並べていた。テーブルはほとんど埋まっていたが、兎の周りは空いていた。ひとつ挟んだ右側には4人組の男が座り、昨日のテレビ番組の話に興じていた。ひとりが芸人のセリフを真似て、残りの3人が大げさに笑った。その際に兎の斜め前にいた男の口から、唾が飛んだ。唾はその前の男のサラダの中に落ちたが、誰も気づいていなかった。兎はサラダが男の口におさまるのを見届けようと思ったが、なかなか箸をつけようとしなかった。兎はコップに残ったわずかな水をすすりながら男を観察したが、男は箸を置いて手振りで何かを説明し始めた。兎はいつのまにかその動きに亀を重ねていた。亀の動作はいつも、何かに疲れたようにかったるそうだった。誰かが衝撃的なニュースを仕入れてきても、大きな反応をする事はなかった。1対1で会話をしていても、話ているこちらが消化不良でも起こしているような気分になった。亀の顔を見ても表情は乏しく、どんな心理状態なのかを読み取るのは難しかった。爬虫類の目には瞳がなく、全ての光を吸収しているようだった。分厚いまぶたの間に埋め込まれた黒い目玉は、時折悪意の塊のように見えた。

その時兎の頭に、ある考えが浮かんだ。亀は兎がこう考えるのを予め予想しているのではないだろうか。兎は亀との勝負を放棄し、亀を勝たせようとしている。それこそが亀の狙いなのだ。だいたい亀のような男が、このような周りの感情を予想できないはずはない。むしろ誘導したと言っていい。こんな勝負の内容なら、人々の心は必ず亀の方につく。兎は周りのプレッシャーに押しつぶされ、勝負を放棄する。実際は押しつぶされたわけではないが、放棄しようとしたのは同じだ。こうして亀はまんまと勝利を手にし、稲子に対して想いを伝えるのである。そう考えるとさっきの女も亀に頼まれて兎を非難したのかもしれない。よく考えると公衆の面前であんな大声を出すだろうか。よく見ると大人しそうな女だった。お盆をバタバタする仕草もわざとらしかった。「社会的弱者」なんて言葉もいかにも亀が好きそうである。

兎はようやく理解した。亀には初めから勝算があったのである