意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

さらばソングに出てくる男は相当の女ったらし

さらばソングというのは、私が平日毎朝見ているEテレの6時55分から放送している「0655」という番組でたまにかかる歌である。今のところ第三弾まで発表されている。サブタイトルがご当地再発見ソングとなっており、何を再発見するのかというと例えば第一弾は高円寺が舞台なのだが、主人公が高円寺を歩きながら高円寺という寺を発見するのである。同様に第二弾では豊橋市で、豊橋という橋、第三弾では宝塚市で宝の塚(ほら穴のようなもの)を発見している。それだけならいいのだが、この歌は毎回女に振られるところからスタートする。しかも最初はみよ子という女に平手をくらい、三弾ではゆかりという女に贈り物のネックレスを突き返されている、という具合に穏便ではない最後を迎えている。男は毎度メガネをかけ、黒いコートを着たさえない男で、さえないながらも短期間に三人もの女に振られ、どれだけ女好きなんだよ、と思う。しかも殴られているのだから、女のほうはかなりの好意を男に抱いていたと思われる。大方、詩でも贈って女を口説くタイプなのだろう。さらに高円寺だの豊橋だの様々な土地の女と関係を持つのだから、フットワークも軽い。本人は分散投資のつもりだったのかもしれない。

しかし振られた後に町を歩き、そこに町名と同じ寺や橋を見つけるのはとても良いことだ。どうでもよい発見にはしゃぎ、自分の感情が普通でないことを、自らに言い聞かせているようである。

残暑が暑い

義理の祖母が入院をし、そこに色んな人の感情が絡まり合っている。義父にしろ義母にしろ農村の出であり、一方私の父は同じ地方の出だが、母は東京の出身で、あと関わってきた仕事というかが違うから私の家はあまり土のにおいがしない。結婚して義父母の親戚は誰と会っても独特の、土のようなにおいがした。それは別名中上健次のにおいと言っても良かった。中上健次とか村上龍の小説は読んでいて照りつける日差しのような不快さというか、息苦しさがある。少し前に中上健次千年の愉楽」を読んだが、どうにもこうにもスケベで読むのが途中で嫌になった。実際そんな描写はないが、乾いた女性器に男性器を合わせるような息苦しさが読んでいてある。三度目か四度目の射精のような気だるさがある。もちろん性描写に限らず、である。

それと近いものを義父母に感じる。驚くほど純粋な人たちである。義母の家の近くには被差別部落があり、義父の家はつい何十年か前まで土葬をしていた。土葬をしてしばらくすると、関わった人みんなが左目に違和や痛みを感じるようになり、掘り返してみると死体の左目に木の根っこが食い込んでいる、というようなことがあったそうだ。私は端からそんな話に興味はなく、話半分で聞いていたから、死体を埋める穴がどこかのクレーターのような巨大なものを連想された。戦時中の死体が多すぎてまとめて火葬するみたいなのを想像した。ずっと昔の話だろうと思ったら案外最近の話らしい。義母は被差別部落の人の苗字を教えてくれた。それは確かに珍しい苗字だが、全国的に見ればかなりの数がいそうなものだった。それが全部被差別だとは思えなかった。みたいなことを当時思った。もう忘れてしまった。

一方私の父方のお墓は私の家のすぐそばにあったが、周りの墓の中でいちばんみすぼらしくて囲いも何もなく、幼い私は幼いなりに、
「なにかあるな」
と思っていたが。今は墓も進化して、野球に縁のある人なら野球ボールの墓石が用意されたりする。石材屋も単純な四角ばかりではやっていけないのである。一方私のように「墓なんかいらない」と思う人も増えてきた。最初はそんなことを言うのは私だけだと思ったら最近では妻までそんなことを言うようになり、だから私は
「散骨もかなりの金がかかる。あれは金持ちの道楽みたいなものだ」
なんて言い返している。色んな人に三回か四回言った。私も単純な男なのだ。

意味を喪う、を更新しました。

意味を喪う(7) - 意味を喪う

不定期連載の小説「意味を喪う」を更新しました。私が書いています。敦子とのやりとりはまだ続きます。カズヤという男が登場します。書きそびれましたが、カズヤは高校時代「吉井」というあだ名でした。当時流行っていたTHE YELLOW MONKEYというバンドのボーカルが吉井和哉という名前だったからです。イエモンのファンからはさらに「ロビン」と呼ばれていました。それは吉井和哉のニックネームが「ロビン」だったからです。他のメンバーはそれぞれ、エマ、ヒーセ、アニーと呼ばれていました。エマとアニーは兄弟で、しかし弟の方が「アニー」なのでややこしい、と当時私たちは話していた。ロビンはあまりロビンと呼ばれることはなく、みんな普通に吉井と呼んでいた。ロビンといえばロビンマスクだった。

なぜここにそんなことを書いたのかというと、ここに書かないと多分忘れて二度と書かないからです。カズヤという男が次も出るのかはあやしい。私は先を考えてこの話を書いているわけではないから。私のこの文章は、小説ではないけど、しかし小説に引っ張られる。読んだ人はだんだんと、どうして「意味を喪う」というタイトルなのか、わかってくる仕掛けになっています。私としても現時点でこの「意味をあたえる」よりも面白いことを書く手段が見つからないのです。できることと言えばこちらをやめることくらいですが、しかし、ちょっと長く続けすぎてしまいました。だからあの小説は苦肉の策というか、つなぎなのです。このブログをうまくやめるための、ひとつの実験なのです。

やさしさについて_まとめ

定期的にやさしさとは何かについて考えていたが、ここ数年は考えなくなっていた、しかし先日ひさしぶりに「優しいね」みたいなことを言われ、しかもそれは否定的な文脈だったのでゆるやかにスイッチが入った。しかし流れる思考は同じで代わり映えがしない。当ブログでも何度か書いている。

1、やさしさと親切の違い

村上春樹のエッセイで(私は20代はほぼ村上一本だったので思考のベースになっている)人に親切にするのは容易だがやさしくするのは難しい、と書いてあって具体的に両者の線引きについては触れられてなかったので自前の根拠を用意せねばならなかった。私の結論は「ありがとう」が伴うかどうかであった。30(年齢です)を迎えるころから、人にありがとうと言ったり、言われたりするのがしんどくなった。ありがとう、には「どういたしまして」が伴うからである。それはちょうど野球の表裏のようなもので、表ばかり裏ばかりではゲームにならず例えば野球の下手なプロ野球選手というのはいるかもしれないが、野球のルールを把握していないプロ野球選手というのは存在しないように、つまり野球とは私たちで言うところの「社会」であり、社会に関わるためにはルールをおぼえなければならない。だから一回表の次に二回表が続くのは不味いのである。私は正直それがしんどい。しかしやさしさと呼ばれる行為は野球ではなく、言ってみれば完全なる個人の行為、もっと言えば秘密を伴う行為なので、表も裏もないのである。だからじゃんじゃんやろうがやるまいが関係ないのである。だから私は人には親切ではなくやさしさで接しようと思うが、それにはテクニックが必要で、それは現実的な言葉遣いとか振る舞いはもちろん、感情のコントロールといったものも含まれる。人にやさしいという評価を受けるのは、実は人との接し方に失敗した結果なのである。もちろん私は「やさしさを極めたい」とか思っていないので失敗しても落ち込まないが。私が目指すのは「ありがとうのない社会」である。

2、ぜんぜん関係ないが宮沢賢治の「雨にも負けず」というのがあり、雨とか風とか夏の暑さとかに負けず、つまりあらゆるものに打ち勝つという解釈で一部の人たちの座右の銘になっているが、しかし詩を読んでいくと「みんなに木偶の坊と呼ばれ」とあって、そういう何にでも勝ちたい星人の人たちが、木偶の坊と呼ばれても平静を保てるのか疑問だ。私は正直家でも会社でも誰かに「木偶の坊」と呼ばれたら頭に来るだろう。そして、その後なんてつまらない人間になってしまったんだ、と自己嫌悪に陥るだろう。他者の目からの卒業はいつ訪れるのか、と祈るような気持ちで空を見上げる。しかし現実の私は周りに気に入られようと必死なのだ。そんな風に育てた親を恨まずにはいられない。母はあるとき私に、
「あなたに諦めることを教えてしまい、それは申し訳ないことをした」
と謝った。昨日1歳の甥が来た。私は甥にはあまり興味がなかったが、それでも新しい言葉や新しい体の動きを彼に熱心に教えたのは、母の謝罪のせいなのかもしれない。ひょっとしたらやさしさとは、諦めの向こうにあるものなのかもしれない。

24時間テレビのギャラ

私は数年前までは「24時間テレビ27時間テレビ恐怖症」と自称していてそれは周りに番組に対してネガティブな感情を持つ人がいなかったからで、そういえば私は90年代は
タモリが好き」
なんて言っていたがそれも友達が
タモリのどこが面白いのかわからない」
と言っていた影響が大きい。私は決して時代を先取りしていると言いたいわけではないが、時代の空気が変わり、いくつかは私に合わせてくれた。しかしいくつかの分野で追い風が吹くと、もうそれについて語ろうとは思わない。自分以外の誰かが言ってくれればそれで充分だと思う。もちろん結果として、
「あなたの主張は○○だね」
とカテゴライズされてしまうこともあるが、気づいてなければ、あるいは気づいたことを自覚しなければセーフだ。そういう意味で私は無知なことはアドバンテージだと思っている。世の中は知りたがりであふれかえっているが、重要なのはいかに他人に影響されず、自分のペース、自分のテンポを守れるかである。例えば含蓄の含んだ言葉に出合った場合、必ずそれに対する反論を自分の中で組み立て、戦わせて、というかそういうプロセスがなければ血肉にはならないだろう。そこに早い遅いという発想が入るのは意味がわからない。

ところで十年以上前に友達とチャリティーコンサートについて話していて、私は出演者にはギャラが支払われていないことを知ってびっくりした。友達はギャラが支払われることにびっくりした。つまりどちらも払うのと払わないのとどちらが一般的なのか知らなかった。今も知らない。ケースバイケース、だろう、収益金の一部を寄付しますみたいな断りを見たことがあるので。

数日前に都市伝説のサイトを見ていたら24時間テレビの都市伝説、というのがあって読んだら西田ひかる24時間テレビの記者会見で、
「ギャラがあることにびっくりした」
と語り、スタッフがあわてて制止したという話が出ていたが、それを読んで上記の友人とのやり取りを思い出し、ギャラはギャラ、寄付は寄付という考えを思い出した。私はそのとき友人に、
「ギャラはギャラとして一度は支払うべきで、その後に出演者が同額寄付すればいい」
と説明した。なんでそんなややこしいことすんねん、と友人は納得していないようだったが、この人は私の言うことをいつも一理あるという風に受け止める人だから、それ以上反論しなかった。なんで、と問われれば「それがプロだから」と答えた。

そういう風に考えるようになったのはおそらく村上春樹の影響で、昔読んだエッセイに、小説家は対談というのをたまにやるが、料亭などでご飯を食べながらやることがある。そのときその食事代がギャラの代わりとなる(つまり実質ノーギャラ)ことがあるが、自分はそういうことはしない、書いてあった。あと漫画ブラックジャックの影響もいくらかある。

それから十年以上が経って私はいまだに何のプロではないから、プロというものに幻想を抱きすぎなのかもしれない。しかし結果的にノーギャラ、なあなあでやるにしても自分の中で「一体何をもってプロなのか」という定義を少なくない時間をかけて築いていかないと、最後は自分が蝕まれてしまう。

単音の自由

朝出勤中に、ひさしぶりにスティーブ・レイシーを聴いた。スティーブ・レイシーはソプラノ・サキソフォニストで、元ははてなブックマークの記事で知った。他にも幾人か紹介されていたが、スティーブ・レイシーがいちばん気に入った。特にPrayerという曲が好きで、今朝も前奏を一聴したとたんわくわくした。ひとりで演奏している。まるで今まで聴いた全ての音楽が、この曲の前奏であったかのような気がした。ジャンルはジャズだがソロで演奏しているからか、あまりジャズという感じがしない。同じアルバムでマル・ウォルドロンというピアニストと二人で演奏している曲もあるが、ピアノが入るととたんにジャズの体裁が出来上がる。サックスは単音で、ピアノは複数だからだろうか。ピアノは人差し指がダメなら中指で、みたいな卑怯な楽器なのである。

「Prayer」を聴きながら、これはどこか別宇宙のポップミュージックなのではないか、と考えた。同じような音が何度も繰り返され、私は川の上で舟を漕いでいるような気になる。舟と言えば「高瀬舟」である。あれは死刑囚を乗せていた。違うかもしれない。ちゃんと読んだのか、記憶も定かではない。

あるいは学生時代の夏休み前に配られた「ナツイチ」という集英社の冊子でストーリーを把握しただけなのかもしれない。「ナツイチ」は集英社のお薦めの文庫がたくさん出ていた。古くは森鴎外夏目漱石から、新しいのもあったがほとんど忘れ、覚えているのは村上龍の「69」くらいだ。吉本ばなな原田宗典灰谷健次郎がいた気がする。私は昔からカタログの類が好きで、学生というのはよく読書感想文の宿題を課されるが、今思えば、どうして「ナツイチ」の感想文を書かなかったのか不思議だ。当時の私は今よりも頭が固かったのだ。大泥棒ホッツェンプロッツなんか書いている場合ではなかった。私は青春時代ナツイチとPTAの名簿ばかり眺めていた。

ドラマ「神の舌を持つ男」が面白い

子供が「神の舌を持つ男」というドラマが面白いですよと言うから、私は面白くても面白くなくてもドラマを見たいという気分ではなく、私にはドラマを見る/見ないの自由を有する現代日本人であるから見ないこともできた。しかし子供は二時間だけテレビの前にいてほしいと懇願し、よくきくと一時間の二本立てであったから図々しいやつだと思った。自分が面白いと思ったものを人に勧めたがる時期は私にもあったがあれはなんなのだろう。私の両親はそういったものに全く耳を貸さず、例えば
「一緒にトランプしましょう」
とかならたまには乗ってくるのに、本やゲームを手にしたことは一度もない。しかし私は母に「幽遊白書」や「イレブン」を読ませたことがあり、それは続きを読ませたいと思わせて商品代をせびるという、ある種の「おねだり」であった。実際母はよく漫画を読んだ。母の元々の守備範囲は少女マンガで、大谷博子が好きであったが、幽遊白書では桑原が好きだという。これはつまり、美少年美少女を少年マンガがうまく描けるわけないという主張だったのかもしれない。イレブンでは誰が好きとかきかなかったが、おそらく浦部あたりであろう。私はイレブンなんかだと誰でもいいやって気がする。一方の私も母所有の「生徒諸君」などは面白いとおもって二回くらい読んだ。

とにかく子供の自分の面白いものは他人も面白いはず、という思い込みはなんなのだろう。しかし神の舌はわりと面白かった。最初トリックに似ていると思ったが、私はトリックもほとんど見たことがなかったが、トリックはほんの少し見ただけでもなんか疲れた。それが神の舌にもあった。それは何分かおきに木村文乃が頭のおかしいことを言って、それを同行の顔の四角い男がたしなめるのだが、そのたしなめが、極めて正確かつ執拗で、そのちゃんとした感じが疲れるのだ。几帳面というか。いわゆるお笑いでいうボケ/突っこみなのだが、それぞれのアイデンティティが確立されすぎというか、私はボケ故にボケる、とか突っこみ故に突っこむ、みたいなのが画面越しにひしひしと伝わってきて、私も視聴者ゆえに視聴する、と正座して見なければいけない気がしてだんだんと頭が痛くなる。やはりどこかにゆるさが欲しい。ボケはたまには滑って、突っ込みはたまにはスルーしてほしい。私も寝転がってみたい(実際はソファーに横になって見ているからこれは比喩)。

しかしだんだんと慣れてきたら、素直に笑えるようになってきた。木村文乃は最初水樹奈々だとばかり思っていたら違う人だった。あと片瀬那奈は友達に似ているなあと思った。あと向井理は顔を見る度になぜか押尾学という名前が出てしまいいつも困っている。