意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

スピッツの

スピッツのライブで客側がサプライズで往年の名曲を大合唱しましょうよとSNSで呼びかけていてスピッツのファンが冗談じゃないよと反発するという記事を見かけた。呼びかける側もファンである。反論の中に「そんなのスピッツらしくない」というのがあって私は「スピッツにもスピッツらしさというのがあるのか」と感心した。スピッツは私が十代後半のときにブレイクしたが私はまったく興味をそそられなかった。私がスピッツについて知っているのは「ロビンソン」という曲についてミュージックステーションタモリが「ぜんぜんロビンソンじゃないよね?」とスピッツに訊いたらそれはまだ曲が完成していないときの仮タイトルが「ロビンソン」だったのですよという話とミキサーがササジさんという人で私がなんでミキサーの名前まで知っているのかというと高校のときの音楽の教師が流行りのミュージシャンを上から目線で分析するという気質の人でその人いわくスピッツはコード進行で見るとビートルズと酷似しているがササジさんのアレンジで聞くに耐えるものになっているのだった。私はそういうものかと思ったがどうやらササジさんというのは有名らしくササジさんがスピッツから離れたあとにインタビュアーが「ササジさんいませんね?」と問いかけると黒眼鏡のギターの人が「別にササジさんで持ってるわけじゃないんで」と半ギレで答えていてちょっとは気にしていたのかなと思った。これがスピッツについて知っている私のすべてです。


音楽教師にはそれと小室哲哉について言っていて「小室は商売が上手い」と評していた。こうなると音楽でもなんでもないただの言いたがりのオッサンだがこの音楽教師は私に二つ重要な影響を与えてくれひとつはミュージカルの「ジーザス・クライストスーパースター」を見せてくれたことともう一つはオウム真理教の施設に機動隊が突入するところを見せてくれたことだった。ちょうど授業が終わったところで教師がどこかのニュースに合わせてくれたのだ。休み時間だったので一分くらいしか見られなかったがそれでも何が起きているのかはわかった。教祖の麻原しょうこうは天井だか階段の中の小部屋に隠れているがやがて見つかって確保され警察の取り調べに対して「メロンがたべたい」と言ったとニュースは伝えた。あるいは隠し小部屋の中でメロンを食っていたのかもしれない。とにかく私が高校に入学する直前に地下鉄サリン事件が起き巷ではその後「Xデー」というのが噂された。「Xデー」という任意の日にまたサリンだか毒ガスをまくと言うのだ。Xデーはあるらしいがそれがいったいいつでどこなのかもわからないから私の乗る電車にもドアのところに2人ずつ警官が立っていて異様だった。もっとも私の通った高校は田舎だったので警察は途中で降りた。

みやぞん

みやぞんという芸人が我が家で大人気である。もちろん人気なのは私以外の家族であり私としては今旬の芸人ならサンシャイン池崎が好きであとはもう旬じゃないがもう中学生が好きだ。アキラ100%は論外で論外というか私は彼の芸をまともに見たことはなく初めて見たときには素っ裸でバラエティーのゲストでやってきてイスに座り厳しい半生などを真顔で語っていて「義理のお父さんはアキラの芸を認めてくれるか!?」みたいなのばっかで私は血縁でもなんでもないから興味がわかなかった。そういう意味の論外で例えば他の芸人なら「はいネタどうぞ」みたいなタイムがあって私はそういうので彼らの笑いの手法を知るのだがアキラはやはり裸だからテレビ局側も半ば無意識にネタをやらせることを敬遠しているのではないか。でもふと思ったが「笑えない裸」というのもそれなりに新しい気がする。


みやぞんの前はトレンディエンジェルが我が家で人気だったが斉藤の女性問題で一気に株が下がった。女性問題というのも私はよく知らなくて斉藤が映るたびに妻が激しく画面を罵倒するのを見てなんとなく察した。それ以前は斉藤のはげ頭が映る度に手を叩いて喜んでいたのだが。それが今はみやぞんに替わった。即興で歌を作るのがうまく運動神経もよく器用でウッチャンにも気に入られ人気が出るのもうなづける。私の妻は「本当にいい人だ」と人格まで全肯定である。私は果たしてそれでいいのかと思う。いいのかというのはみやぞんだって性欲はゼロじゃないしギャラも認知もうなぎ登りでこの先すべての人を傷つけずにやり過ごすことはほぼ無理だからだ。それをお釈迦様みたく祀っていいのか。改めて私は融通のきかない性格だと思う。逆に言えば私は手放しで褒めた人がお釈迦様級でないと自分の感性や先見性が否定されたようにかんじ深く傷ついてしまうのである。つまり自分のお気に入りが絶対無敵じゃないと気が済まないのである。当然そんな人は滅多にいないからその人を手放しで褒める確固とした根拠を構築してちょっとした揺さぶりにも負けないようにししかしそんな構築もいちいち面倒だから自然とマイナーな領域のマイナーな人を褒めるようになってしまう。テレビのぱっと出の人なんかに容易に心を許すわけにいかない。それこそその人が女性問題を起こして失脚した際例え心の中でも「こいつは人間のクズだ」なんて思ったら私のプライドは地に落ちるだろう。

文章力の筋トレと重量上げ

もっと一杯舞って頂戴 - 母父トニービン

昨日あじさいさんのブログを読んでいたらタイトルの言葉がでてきて気に入ったので使わせてもらいます。そうやってムキムキマッチョになった先には何があるのだろう。


こうした物書きの運動への比喩は無理があると思っているが「走り込み」だけはなんとなくわかると思っているがそれは村上春樹が言っていたからという理由だけでその記憶がなければ「走り込み」も無理あるとかんじる。逆に村上春樹が「文章の重量上げ毎日欠かしたことはありません」と言ったら私は賞賛するだろう。私はミーハーなのである。


一方で私はズレをかんじる。ズレとはよく匿名の記事などに「素晴らしい文章」という褒め言葉が記されることがあるが私は何が素晴らしいのかよくわからないことが多々あるのである。私はたくさん読み物をしたからそういう感覚が麻痺しちゃったのかもしれない。てにをはがしっかりしているのが良い基準なのか。もしかしたらこういうのを「しなやかな筋肉のような文章」と表すのかもしれない。でもやっぱり私は村上違いの村上ポンタ秀一(ドラマー)の「表現はアスリートじゃないんだから絶好調ならいいってわけじゃない」という言葉を信じたい。信じたいというか。私はものを書く(たぶん表現全般)行為は自分でどうにかしようとするものじゃないと思う。がんばったから一等賞というものじゃないのである。


プレバトという番組の俳句コーナーで俳句の指南の先生が「言葉の省エネ」みたいなことを言うがこれは絶対おかしいと思うがテレビだから「ここはこうすればOK」みたいな構成にしないとダメみたいなのがあるのかもしれない。番組によればより積載力のある言葉のチョイスを心がけろというのである。それこそマッチョな文章で家一軒分の荷物を運べというのである。それはあまりに三次元的に考えすぎではないか。いくら見るからに大きな荷物を運べるとしてもそこにまだ見ぬ五次元六次元をかんじさせないとどこまでも貧しい言葉選びになってしまうのではないか。「かんじさせないと」というのはいかにも手垢がついた言い方だから言い直したいが思いつかない。


多くの人にとって比喩とは目的地に効率的にたどり着くための手段なのだろう。100分で名著の三木清「人生論ノート」で伊集院たちが「戦時中だからこういう回りくどい言い方をするのだろう」と語っていてじゃあ逆に平時に書かれたらもっとストレートな物言いになって相田みつをみたいになってしまうのだろうか。「人生論ノート」は何十年前に書かれたが「今の私たちに通じるものがある」と言われていてしかしもしそれが相田みつをだったら同じように思えるのだろうか。私たちがそこに「今」をかんじるのだとしたらやはりそれは内容ではなく「回りくどさ」ではないかと思う。あるいはわかりづらいから人によって解釈が異なり勝手にその時代にチューニングさせているだけではないかという分析も可能だがわかりづらさそのものが敬遠される時代もあるだろう。そう考えると迂闊に「特高に見つかるとヤバいから雲に巻くような書き方をした」という評価は浅はかである。たとえ著者自らが「わざと回りくどく書きました」と表明しても同じである。同じだとけろっと言えるのは書くことは自分でどうこうするものじゃないと思っているからである。

激しく電柱を蹴っている人がいた

車で出かけていたらとちゅうの道端で熱心に電柱を蹴っている人がいた。半袖短パンでまわりに人はいない。あまりに熱心なので何かの運動のようにも見えた。私が横をすぎるころには止んでいて1セットが終わったところだったのかもしれない。電柱には土ぼこりがついていた。畑の多い田舎道である。やはり電柱を蹴飛ばすのは良くない行為である。良くないからやはり何かに怒っていたのかもしれない。あるいは格闘家志望とかかもしれない。


用があって子供の学校に行った。用はすぐに済み帰り道校門のそばに夏によく葉を茂らす樹齢何十年かの木が立っていてそれが私の視界を遮り遮った先には雲と青空があり夏をかんじた。私は夏が好きなことを思い出した。その前に校庭のそばを歩いたらソフトボール部が熱心に土ぼこりを上げながら球を投げていた。上半身の筋肉が発達してそうだった。校門のところに守衛がいて守衛は熱心に新聞の折り込みチラシを見ていたので私が来たことに気づかなかった。その反対側に太い木があって日差しを遮り私は夏をかんじた。私は子供の学校に書類を出しにきていた。その書類に私の名前を書く欄があり上に長細い四角で「ふりがな」とあった。私は長い間その下のやや太い資格の名前を書く欄を書いてから漢字に対応できるようあとから「ふりがな」を書いたがやはり書類は上から埋めていくのが気分がいいと思い以来「ふりがな」を先に書くようになり特に対象の漢字の上に「ふりがな」が来なくても止むを得ないと思うようになり私はそのことに誇りすらかんじた。


ところで「ふりがな」は「フリガナ」のときがありこれは暗黙で平仮名かカタカナかを指定する記号であるがそんなルールがきちんと明文化されているのを見たことはなくひょっとするとトレンドか何かの類で今の人はかまわず全部カタカナみたいな風になっていたら渡す相手にも苦笑されたり年齢を推測されちゃうなと思った。


あと家の近くの道に何日か前に雀がつぶされていてそのことを子供に伝えたあとに実際にその道を通ったらまだつぶされたままで最初に見たときから2日くらい経っていたから雀はぱっと見ゴミのかたまりにしか見えなかった。よく見るとくちばしなどが判別できた。子供は興味を抱き車の外に出て観察していたがそこは狭い道なので対向車がきたら厄介だから私は車から降りずに前後の道路をその間見張っていた。

語彙

とりとめのなさと一九八四年 - マトリョーシカ的日常

局長さんが今朝の記事で「自分の中の言葉の少なさにあきれる」と書いていて謙虚な人だなと思った。あるいは私はそれを反射的に語彙についてと解釈したが今読み返したら言葉とあったからニュアンスとしては違うのかもしれない。私も何年か前は本を読んでいてわからない単語があるのが嫌にかんじる時期があって辞書アプリを入れていちいち調べたことがあって調べた単語をTwitterに投稿できればいいのにとか思った。しかし大昔の学生時代と同じことが起こりそのときは英語だったが同じ単語を調べると自己嫌悪に陥ってしまう。同じとは過去に一度調べたことの意味を忘れて再度調べてしまうことである。私はなんでも一回でおぼえないと自分が阿呆になったみたいでむしゃくしゃするのである。だからいつからか言葉の意味もいちいち調べるのをやめ少なくとも日常で読む本ならわからなくとも読むのに支障はないのであった。


局長さんはもしかしたら仕事上で語彙についての指摘を受けたのかもしれない。私も去年くらいには上司に「文章が長すぎる」とメールの文章について注意され以来改行を多くしてポエムかブログのような文を書くよう心がけている。前にも書いたが子供に言い含めるように書くと好評である。しかし私は誰かから「文章がうまいね」とか言われたことがないから小学生の作文みたく思われているのかもしれない。

ボクサー

帰りに踏み切りで下り電車が通過するのを待っていたら前に男がひとり立っていて男というか中年である。その男が意識的が無意識的か私の車をとおせんぼするような位置に立っていて確かにそこはマイナーな裏道にかかる踏切だから歩道とかなくそれなら端っこを歩けばいいだろうとカードライバーの傲慢さが思わせるのだが踏切の橋のほうは板が波打っている板の向こうは闇だ。そうであれば男がとおせんぼする形になっても仕方がないだろう。そもそも私よりも先に踏切の前に立っていたのだ。その道は裏道で対向車とすれ違うのも難儀だから遠目に対向車が来ないことを確かめてからハンドルを切るようにしている。角の土地は畑だか空き地なので曲がる先がよく見えるのである。踏切に向かって道路は少し下がっていた。よくわからないが小さな川が流れているらしい。小さな川は道路の形に合わせて流れのほうが変えさせられてしまうからその道路が完成するともう誰も川のことなど忘れてしまう。ましてや私は土地の人間ではないからなおさらなのである。


この辺を歩いて会社にやってくる人がいて踏切と逆方向だがそっちのほうには団地があって分譲住宅があってその人は毎朝通りながら「まだ売れないなあ」などと思っていた。その人自身は浦和に土地を持っていて娘は看護師だ。犬を飼っていて先日犬が具合が悪いといって早引けした。そうしたら今度は人間のほうが悪くなったのでみんなは「また犬かな?」と思った。犬のことばかりでは気が引けるから自分が身代わりになったという発想である。私が駅まで送ると言ったが頑なに断って歩いて帰った。そうして暑い中いつまでも売れない分譲住宅の前を通って帰ったのだろう。売れた住宅の中には葡萄を栽培している人もいた。


ボクサーというタイトルについては前述の踏切前の男がタオルを拳にぐるぐる巻きにしてボクシングのグローブに見えたからつけた。

浦島太郎について考えた

浦島太郎の話はなぜ不朽であるかを考えると浦島太郎じたいは何の落ち度もないのに最後老人になってしまうという理不尽さと噛み合わなさにあるのではないかと分析した。少し前に「○○のどこが面白いのかわからない」という言い回しが問題になっていたがこれは本質的にはわかるわからないの問題ではなく「○○程度で面白がる感性の未熟さ」「○○の面白さが理解できない自分の感性のするどさ」の表明に対する反論なのではないかと推測する。私の推測は少し極端なのかもしれないが私は今までさんざん「理解できない」とか「俺には無理だな」と私の行為に対して否定的な感情をぶつけられたから極端なのだ。そういうと「いや純粋に理解できないだけ」と返されるが純粋さとはそもそも不躾なのである。だから他意があろうがなかろうが他人の行為にはいちいち興味を示さないのがベターである。


そもそも「わからない」という感覚はそれは時間をおけば「面白い」に変化する可能性を含んでいるから決してマイナスな評価にならないはずなのである。しかしそれがいわゆる煽りのようになってしまうのはどこかで「わかっている」からである。何がわかっているのかと言うと「わざわざ見るまでもない」ことがである。確かにわかっているものはつまらない。例えばストーリーというものがあって割と理不尽な扱いを受ける主役がその回に限り何か明るいニュースに見まわれるとだいたいいいところでそれがひっくり返されたりするがつまり明るいニュースは暗示でそこで未来がわかるので私は主人公が不幸に見まわれることがあらかじめわかるから暗い気持ちになってもう話を進めたくなくなってしまう。もっとわかりやすく言うと死亡フラグが立つと気の毒で見ていられなくなるのである。


話は戻るが私が昔読んだ「センチメントの季節」という漫画があってそれの単行本の最初の話が「せんせい」というものでそれが若い男教師と女子高生が性行為をたくさん行うという話だった。もちろんそれは純愛であるのだが一方で男教師に恋愛感情を抱く冴えない女教師というのがいてあるときブラウスのボタンを外しながら男教師を誘うのだが「学校という場所で仮にも教師という立場でありながらなんてことをするんだ」と男は女教師を軽蔑する。自分は生徒と散々理科室で立ちバックとかしているのに。ところがそんな場面を女教師に見られてしまうのである。見られた男はヤケになって女子高生にプロポーズをするのだがあっさり断られてしまう。その後時間が流れて男教師は女教師と結婚する場面で話は終わる。女子高生は結局のところ男教師の教師のぶぶんを愛していただけで男の人格そのものには端から興味がなかったのである。


私は相対性理論というバンドの「地獄先生」という曲を聞く度にこの話を思い出すのだがこの前ふとこの「せんせい」は浦島太郎と似ているが浦島太郎よりもずっと理屈が通っているがために不朽の名作になり損ねたのではないかと思った。