意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

子の小論文

妻の小論文 - 意味をあたえる


妻の小論文がいち段落したと思ったら今度は子供から「小論文ばどう書けばいい」と訊ねられた 4月から高三なので学校から「小論文を練習せよ」と言われるのである どう書けばと言われても私としては「好きなように書け」としか言いようがない 私は小論文と感想文の違いもわからないのである 妻などは「妹もあなたも学生時代は小論文のいくつかは書いたはずなのに聞けば「忘れた」という そうやって高卒の私をバカにするのだ」と文句を言う 確かに私は大卒でレポートや論文も書いたけどそれらは単にテーマを読んで関連すると思われる文字を並べただけだった だからただ「小論文」と言われても何も浮かばないのである そのときそのときで出題者が喜びそうなことを書き良い評価のときもあれば悪いときもあった 同じ講師でもSのときとFのときがあってその理由は今でもわからない ただ出題するほうだって中身のない文章を何十も読むのだから真面目に読むはずはない したがってこちらもそれなりに手を抜いて臨むべきなのである


しかし家族なので妻の文章を見ることにした まずは原稿用紙の使い方を教えた 段落が変わったら字下げをすることを妻は知らなかった 気分で引っ込んだり出っ張ったりしたので「字下げは段落が変わったことの合図ですよ」と教えた それから中身のないぶぶんを削るように指示した 「様々」という言葉は馬鹿みたいだからやめろと言った 妻の論文は最初の半分くらいになってしまい「もういい」と言われたから止めた 後日そのことを実家に住む私の妹に伝えたら「誰だってお兄さんからものを教わったらイヤな気になるでしょうね」と言われた 確かに私はやるとなったらやりすぎる向きがあるので教わるほうからしたら「ほどほどでいいんだよ」と思うのかもしれない

最後は大抵つまらない

文章の話だが書いていてラストが数パターンしかないことを意識することがある あるいは新たな気づきを書いているようで最後の段になると前にも主張したこと自分がよく言っていることにおさまってしまうということがある どれもこれも「終わり」を意識するからである


会社でメールを書く機会が増え早い段階で「よろしくお願いします」を辞書登録した「よろ」で出る 繰り返す言葉なので登録するのは効率が見込めるが端的に考えてバカである どうしてこんなことをいちいち書かなければならないのか・挨拶みたいなものだという考えもあるがそう考えると仕事に挨拶もいらない気がしてくる 挨拶もしたくないくらい嫌いな人もいるから したい人だけすればいいのだ 少なくともメールはいらないことは確実に言える


いらない理由は決まりきっていてわざわざ読むまでもないことだがメールに限らず文章は流れを意識すると最後をきれいにしめるという意識が働いてワンパターンになる 「きれい」とは無難ということでありすなわち「つまらない」ということだ 私は以前「まとめられるブログはつまらない」と書いたことがあるがまとめられるのなら最初からそれだけでいいだろと思う 「要するに」とか「言いたいことは」というのは実は要されなかったぶぶんのほうが面白いのだがそれでも要するのはそうしないと書ききった気がせずおさまりが悪くなるからである 世の人が書く文章のほとんどは「おさまり」が良いので少なくとも最後まで読む必要はない 


私は無駄なことは書きたくないので読む必要のないことは書かないよう気をつけている だから自然とおさまりが悪くなるよう空に放り投げるように書いている タイトルから書くが書いているうちにそれは忘れ長くなると最初のほうに書いたことも忘れる 読み直せば誤字が減ったり主語述語のつじつまがもっと合うようになるのかもしれないが面白さが向上するとは思えない ここ数年は一筆書きみたいなスタンスです

インターネットをしているから色んなことを知っている

本社から人が来て新しい経営方針の話をし周りの人は「ちょっとよくわからない」というかんじだったが私にはわかった なぜなら私はインターネットをしているからだった

ここ何年かの私の勤める会社は結局のところ流行を追っているのだ 周りがそうだからうちもやろうというのが目に見えている ところで「もう終身雇用・年功序列は終わり」みたいなことを10年以上言われているが「終わり」の解釈は未だに人それぞれで驚く しかし私の解釈をつきつめるとディスとピアみたいになって要するになるべく悪いほうに考えるほうが心理的には楽なのだ だから世の中は私が考えるほど悪くはないのだ と思うものの悪になりきれないのが私なのである というか私は引っ掻き回し屋さんで誰かがAといえばBと反論したくなる性分だ 今日も
「高崎営業所の実川は若手なのに毎日誰よりも遅く残って仕事しているのに昇級は0だった ひどい会社だ」

と実川をよく知る川本さんが話していて私は
(それは実川の働き方がトロいだけでは?)
と思ったが口には出さなかった 実川の残業には私もまったくの無関係というわけではなかった しかし私のここまでの書き方で読んだ人は「実川=使えない人」と思ったに違いない 実際はそんなことはないのだ そんなことはないと書いたが本当は使えないのかもしれない 案外感じたことより文字にしたことのほうが正しかったりするのだ 数字は真実をあらわすみたいに言われるが文字も同じなのだ だいいち私は長時間労働を美化することなんて断じてしたくない しかしそういう考えが孤立を招いてしまうのである(つまりみんなは長時間労働が好き)

眠い1日

朝からぼんやりすると思い昨晩はゲームしすぎたかと思いしかし11時には寝たではないか 今の私からすると11時でも遅いのかもしれない 起きるのは6時だ 6時にヒーターに火をつけそれから10分寝る 10分後にアラームが鳴るようになっている 今朝はそれがよくわからなかった 10分に目が覚めてそれからまた5分寝ても良かったんだっけ? 現にしんどいときはタイマーをかけることがある タイマーをいちいちかけるなんて非効率的だがアラームで自動的に鳴るようにするとその時間が起きる時間になってしまう スマホをちまちまいじってタイマーをセットしているうちに目が覚めそうだがこっちは寝たくて必死なのだ

それが今朝はわからなかった

つまりいつも起きるのがいつなのかちょっと見当がつかなくなってしまった 覚醒が浅くて記憶がつながらないのだ 年寄りが散歩に出た先で道がわからなくなるのもこんなかんじなのかしら 不気味なのは二点あってまずは時計や数字は読めるのに時間がわからないこと・そして起きる時間がわからなくなったのに「分からないことにより起こるリスクを最小限にするために起きてしまおう」という最適解をだせなくなったことだ

木目

天井のシミや木目が人の顔に見えてしまうということはよくあることですね 私も子供の頃は寝室の八畳間に接している廊下には向かいに洗面所と便所があって便所の上の壁の木目が怒りのこもった人の横顔に見えて怖かった それをおそらく母に訴えたことがあるが母は取り合ってくれなかった 廊下と八畳間を仕切る襖があったが何しろとっちらかった家だったので物が立てかけてあったりして襖がしまることはほとんどなかった だから木目は常に私のそばにあって私をおそれさせた 


木目のことは長い間忘れていたがこの前ふとしたはずみに思い出したので子供に
「今度怖い顔の木目を教えるよ」
と約束した 子供は
「うん」
と言った 忘れてしまったがそもそも子供のほうから
「怖い木目がある」
と持ちかけてきたのだ 木目は大人には見えないから私はそれを確認したかどうかもおぼえていない 木目が人の顔に見えるというのは一種の共感覚ではないか 共感覚とは音に色がついているとかいうアレだ 幼い頃は誰でも共感覚はあるが成長に伴って分離されるらしい 子供の頃は物理とか知らないから身の回りのことを自由に定義できた 木目が人の顔に見えるのではなく 人の顔が木目になったとでも思っていたのかもしれない 私は臆病で暗闇でたたんだ洗濯物が重ねられているのが生首に見えて恐れおののいた記憶もある 

勝間和代が面白い

勝間和代という名前くらいは知っていたがどういう人かは知らずしかしここのところよくブログの記事を目にするので読んだらなかなか小気味が良かった しかし小気味がいい以外に思いつく言葉がない その周りにたかるブログも面白い 昨日なんかはまるで生くら刀で切りかかるような批判にもならない記事があってそれはそれで楽しいけど勝間和代が神格化されそうで困る 理屈ではこの人にかないそうにない ホットククックはあったら便利そうなので妻に提案したら「そうね」と言われた 確かに私は掃除のときの順番みたいなのがあってこれを守ると素早く掃除が終わるみたいら合理的な動きを取り入れたりしたがそれをやっている部屋とそうでない部屋があってそうでない部屋は行き当たりばったりで掃除をするのだが全然掃除をした気にならない つまり私は掃除ではなく掃除の手順を考えているだけなのだ

涼宮ハルヒの歌

涼宮ハルヒの歌が好きである 歌といってもいろいろあるのだろうが私が知っているのは一曲のみで涼宮ハルヒがバニーガールの格好をして文化祭のようなステージで歌っている歌である 昔涼宮ハルヒの好きな友人がカラオケで歌っていてそのとき映像も一緒に流れていたのだがアニメの演奏シーンは大抵演奏していてもいい加減な動きをしているのだがその演奏は比較的忠実で特徴的なギターのリフも左手の指がうねうね動いて反応している 私はそれを見るたびに「こんなギターのうまい高校生がいるのか」と唖然としてしまう ひとりで部屋の中で座ってというならともかくライブで大勢の前でなんて余程のテクニックと場数がなければできはしない アニメなんだからお話なんだからということは私も分かっているが毎回私は唖然とする そうしてその友人とカラオケに行くたびに涼宮ハルヒがバニーガールで文化祭のやつとリクエストする


私はそもそもアニメでいい加減な動きをされるのが我慢できないというのは現実でも同じで例えばギターしかいないバンドのライブでシンセサイザーの音が鳴ったりすると騙されたような気になってしまう アイドルとか演奏を売りにしているわけでないならともかく「バンド」と呼ばれる集団が演奏しないとはどういうことかと憤慨したい気になる 私はラッシュというカナダのバンドが好きだが彼らは3人組のギター・ベース・ドラムの3人編成だがベースの人が足でキーボードを引く曲があったりドラムが電子マリンバみたいなのを叩く曲があったりしてライブというかんじがする 通常曲を作ってアルバムを発売してからライブという流れになるが自分たちの曲をライブで再現するために彼らはかなり「練習」するというのを前に雑誌で読んだ


それにくらべると涼宮ハルヒのほうはいないはずのコーラスが入っている時点でライブではないがもっと我慢ならないのは観客として見ている男2人が世間話をしていることである 普通のライブなら演奏の音量が大きいから怒鳴るくらいの声でなんとか聞こえるくらいなのだが男2人は涼しい顔で話をしている お互いに唇を読合っているのかもしれないが顔は前を向いたままだ