意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

所ジョージ

たまにコンビニ等で所ジョージのムックだのが置かれていてそのたびにウキウキしながら手にとるのだが少しめくって戻してしまう 全然私の趣味ではないのである 私は子供の頃はプラモデルが好きだったしなんならこの前までガンタンクのプラモも1年以上かかったが作ったし電子工作もしたしメカの分解とかも好きだった 何より「世田谷ベース」という言葉の響きが胸をおどらせる 私も秘密基地を何個も持っていたクチだ それが所ジョージのムックは1ページも耐えられない 少しするとそんな気持ちは忘れ本屋で軍の払い下げみたいな上着を羽織った所ジョージに目を奪われてしまうのである 子供の頃楽しかったことがほとんど楽しめないのは一体どういうことなんだろう


同じコンビニで私の子供が母親にお菓子を買う提案をし厳しい叱責を受けた 当の母親は昼にスーラータンメンを選び口臭がきつくなるのをおそれてガムを買おうとしてある 子供からしたら母がガムなら私はグミよという理屈で私は理屈に弱いから買ってあげるか自分が諦めるだろう 私も結婚生活が浅い頃は妻に「ちょっとアンフェアじゃない?」と言ったが良い結果になることは一度もなく何よりいちばん割を食うのは子供なので黙っていることにしている 私のそういう性格を熟知しているので子供のほうも妻に怒られてもニコニコしている 私はふとこの子は大人になって自分で稼ぐようになったらかなりのお菓子を買うようになるのでは? と思った 大人の趣味の動機の一部は子供時代親から厳しく制限されたことによるという話を聞くし私自身も今バタピーばかり食べるのは子供のときに柿の種ばかり食べさせられたせいである そう思い至るとニコニコしている子供がやがてくる自由な大人時代を見越して余裕をこいているみたいで不気味にかんじた


一方の私は大した禁止事項もなく趣味を満喫したせいなのか、ただ過去を眺めることしかできないのである

ナイスアイディアはいらない

最近助言が増えてきたが結局自分の中でしっくりこなければどうにもならないことに気づいた シンプルにこなそうとする私に相手はわき道への誘惑をかけてくるのである その手には乗るもんか!


しかしそのわき道は所詮絵に描いた道なので実は怖くはないのだがどうしてその人は絵でしかない道を一生懸命に描こうとするのか 私には不思議だがひとつの理由として人によってはよく形から入ると自称する人がいて私は真逆で道具が無駄になるのが嫌で極力中身から入る だから口癖も「要するに」で掛け値のないシンプルな論理を好むのである だからわき道の絵に一生懸命な人が不思議にかんじるのである

このブログはどこまでつづくのか

このブログは春で5年になってしまう その後秋になったら息継ぎなしで丸5年とぎれず続くことになる 秋まではときどきさぼっていたがカウンターがゼロになるのが虚しくて日に一本は投稿するようになった どうしてこんなことになってしまったのか 完全に止め時を失ってしまった 昔はブログ止めたらこれをやろうとか考えていたが今よしたらいよいよすることがなくなってしまう 私に何が起きたのか あるいは起きなかったのか


私はもう書くことについて考えなくていいのだ 本質を見極めるとか・そんなことはせずガワ地だけなぞっていればいいのだ ちょく喩も暗喩もリズムも筋も不必要だ ああ40にもなってこんなことを書いてしまうのか 私が前厄だということを妻が教えてくれた 正月である

大人が失うもの

100分で名著でティーンネイジャースペシャルというのがやっていて見たがとちゅうで見る気が失せて消した 福くんが出ていたがどこか大人に媚びているように見えいたたまれなくなった 「星の王子様」が取り上げられていたが「大人になると想像力が失われてしまう」と当の大人が当たり前のように言っていて果たして失われた創造で安易にそんなことを言っていいものなのか疑問をかんじた


大人になると想像力が失われるというのは私が子供の頃から言われていたがそう言っていた映画やアニメをつくっていたのは大人だった 


最近大人と子供に境界があるのかと思ったらなくてなにも変わらず今に至るみたいなコメントをよく目にしそれは大人というブランドの価値が下がったからでは? と思っていた しかし子供の延長に大人があるというなら大人が子供に想像力で劣るというのも嘘だし大人はわかってくれない云々も勘違いである 大人がわからないのではなくわからない人がたまたま大人だったという話になる


私の結論としては大人というか自らの意志で社会に参加するとそこに境界という物があるが失われるのは想像力ではない じゃあ○○ですと簡単に言えるものでもない 語るのが当の大人だからやはり生きている人が死を語るのと同じなのである 私は子供の頃親とか大人って自説を曲げない面倒な人だなあと思っていたが今になって思うとそれは立場によって発生することで今でも年上とか立場が上の人は的外れなことをそれっぽく語ったりして面倒くさいと思う

またイエモン

どういうわけか年末にふとイエモンを聴こうと思ってGoogle Playミュージックを検索したら以前はベスト盤くらいしか入ってなかったのにシングルまで網羅されて聴いていたら懐かしくなって当時よく見ていたビデオもDVDになっているかしらと思って検索したらあった これも以前検索したときはなかったから再結成されて需要が高まった結果と思われる 私は自分が子供のときになじんだ玩具やコンテンツに大人になってから触れると興ざめするという経験をしたからDVDの購入には逡巡したが結局購入を決め元日に届いた 


そのDVDは1995年頃のツアーの様子をおさめたものでライブもあるがツアー中のドキュメントもふんだんにおさめられていた メンバーの地元のライブではお寿司の差し入れがあったりして和んだ 私はたぶん2000年頃によくそのビデオを弟と見てメンバーのインタビューをマネしたりして遊んだ その後のツアーのビデオは徐々にドキュメントのぶぶんが減って物足りなかった 私はミュージックビデオにミュージック以外は邪魔だという考えの持ち主だったがそのときはイエモンは解散していてそのビデオのことも忘れてしまっていたのだった 

親心

私の会社にも少し前にコンプライアンスの窓口ができて各拠点にポスターが張り出された セクハラとかパワハラとかそういうのがあったからここに連絡くださいねということが書かれて痴漢のポスターみたいに「声をあげましょう!」みたいな文言が印刷されている 私はそのときも今もふーんてかんじだったがあるとき噂で○○営業所のなんとかさんが上司の当たりがきついから電話したらしい、そして上司はしばらく気持ち悪いくらい優しくなったという話を聞いていくらか機能はしているんだなと感心した しかし「しばらく」優しかっただけでこの上司が上司でなくなるとかそういう根本的な解決はなされなかったからやはり物足りない気もした それだけ致命的でもなかったということかもしれない 同じようなことが家庭でもあった 上の子が小学生のときに親から虐待を受けたらここに電話してねみたいな手紙をもらってきて手紙には返信用の紙もついていて、子供がそこに出したいと言うから私は見ない振りをすることにした 理由として子供の母親は確かに子供に対してよく叱りつけていたしその理由が理不尽にもかんじていたからと、私は私なりにフォローをしているつもりだったが第三者的には私も虐待していることになるかもしれないと思ったから子供が手紙を出すことに賛成はしなくても出すことを止めてはいけないと思ったからだった 「出してみれば?」くらいは言った そういうところが機能しているか知りたかったぶぶんもあった


結局は子供宛に手紙がかえってきただけで要するに虐待にはあたらないという判断だった 内容は忘れたが怒られないアドバイスとかそんなのだった どうしてそういう出来事を私が知っているのかというと私は上の子にはたまに怒ることはあったがだいたいは傍観者のような親で子供のやることに口は出さずに見守る態度だった そのため子供は割と素直にそういうことを打ち明けた 子供はすぐ叱る母親を憎んでおり言い返すと倍叱られるから言いたいことをノートにまとめていると教えてくれた 私は当然ノートを見たいとは思わなかった やがてそこには母親ほどじゃないにしろ父である私の悪口も書かれていることも教えてもらった いい気分はしなかったがやはり見なくて良かったと思った またあるときはYouTubeで放送がしたいというからアカウントの取り方だけ教えて放置したらだんだん金銭のやり取りみたいなのが始まってちょっとヤバいかなと思ったら母親にバレてアカウントは即消されたので私の出番はなかった


私は確かに干渉が足りない親なのかもしれないが妻とバランスを取るためにはこのくらいがちょうどいいと思ったしそもそも私自身も干渉されたくないから自然だった 私は妻の両親とも暮らしているがこの親も干渉が好きで成人した娘にもあれこれ言いたがる 外から見ていると人として信用されていないのでは? と思うくらいの基本的な質問も含まれており私は悲しい気分になってしまう あるいはそういうのを親心と言うのだろうか

お説教の歴史

子供「大人は叱っていると他のことまで叱りだす」→大人と話し合って出た解決案が素晴らしい「全国の大人必読」 - Togetter

引用元の子供が思っていたことは私も小学生のころに思っていた 特に女の先生はひとつの事象から別の件に波及することが多いと分析していた だからと言って女の先生が特別嫌というわけではなく男は今度は暴力をふるう教師が多かった テスト翌日の答え合わせのときに問題用紙を忘れた生徒は私ではなかったが竹の棒で頭を叩かれる生徒を端で見るのはつらかった あのとき教師は事前に「問題用紙を忘れたら竹の棒で叩くよ」と宣言していたからそうせざるを得なかったのだ まさかこう言っておいて忘れる生徒がいるとは思わなかったのである まさかと思った、というのは私の想像だがこの年になるとそんな気がする たぶん私はそのときの教師の歳をこえている


怒っているとき本題からずれるのは怒る自分を正当化したいからではないかとふと思った 冷静になると怒るほどではなかったと思いたくてあのときの×だったぶぶん、また別の×のぶぶんで補強して怒るに値すると言い聞かせるのである それほど怒る行為は不自然で心細いのである