意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

すべての記憶はフィクション、経験も

全ての文章は「嘘」の創作?文章の《物語化》と《表現》の話 - ぐるりみち。

この記事を読ませてもらって思ったことだが、私も記憶を綴ろうとすると絶対にフィクションが入り込むことに、以前気づいた。私はそのときに小説を書いていて、小説を書きながら気づいたから、むしろ前向きにそのことを捉えた。

その考えを拡張していけば、現在の状況、例えば今私がいる部屋についてここで描写しても、それはフィクションになる。部屋にあるものを順番に紹介、本棚、引き出し、クローゼット、蛍光灯……。ところでこの部屋の広さはどれくらいなのか? 私はこの家に住み始めてからまだ8年しか経っていないからわからない。でも8年なら、もう各部屋の広さくらい把握してもいいのではないだろうか。私はそういうことに無頓着なのだ。

とにかく私がいくら言葉を尽くしても、読んでいる人の脳内に部屋を再現させることは不可能だろう。

さらに拡張すれば自分の考えや、想像をアウトプットするのだって、やはりフィクションだ。まとめれば私たちの感覚そのものが、どこかしら欠損していて、森羅万象を正確に捉えることができないからだ。

それはよく量子学の例え話で使われる、ビーカー内の水の温度を正確に測るのは不可能というのと同じで、温度計を水に突っ込んだら温度計の表面温度で水の温度は上がったり下がったりするから、温度計は最初の温度の目盛りを指さない、という話だが、私たちも自分の考えや感覚を文字を起こそうとして、脳を動かしたら、その時点で風景や考えを記憶している脳に影響が出るから、正確に記述はできない。

ところで私は普段からあまり考えないで書いているので話は脱線するし、意図しないことを書いてしまうこともしばしばだが、今回は思いのほか筋道通りに書けた気がして、実に物足りない感触が自分の中にある。しかし、私は今日はもう3つ目の記事で、意図しないことばかり書きすぎて、「意図しない」という意図が出来てしまったのかもしれない。それならば、意図通り書くことが、意図しないことであるから、やはり私はもっと満足しなければいけないのかもしれない。

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