ところで私は昨日、「日記、むしろ日誌のような文章が好みだ」と書いたが、書かなかったのかもしれないが、ようするに人間臭くない無機質な文章が好きという意味であるが、それなら機械の書いた文章、プログラムで書かれた文章でも読んでいればいいんじゃないかということになるので、私が購読しているブログの中には、明らかに単なるコピペを一行おきに貼り付けた、不自然極まりない文章がある。もちろん最初は私もそうとは気づかないから、そのブログはきっちり4行ぐらいのかたまりが、一行おきに続いていくのだか、その一行が挟まれると、話が随分と飛躍し、私は最初、
「随分と突飛に書く人だなあ」
と思った。ただ、実際には突飛なことを書く詩人の人などもいるから、プログラムで書かれている、というのは私の勝手な思い込みかもしれない。どちらにせよ、そのブログは打ち込みの音楽のように無機質だ。
打ち込みと言えば、私は以前ドラムをやっていたときにドラムマガジンという雑誌を読んでいたときに、その雑誌は定価はおよそ1000円にいかないくらいだが、たまに付録にCDが付くときがあってそのときは1300円くらいになる。そのときの雑誌がどちらの値段だったかは忘れたが、村上ポンタ秀一というドラマーの人のコラムが連載されていて、私は特にそれを毎月熱心に読んでいたのだが、ある号で、自分のソロアルバムについて触れていて、そこで、
「ずうっと単調なパターンを刻んでいるドラムがあって、誰が叩いているのか、根性があるなあと思っていたら、やっぱり打ち込みだった」
という話があった。自分のソロアルバムならドラムは全部村上、となりそうなのに、どうして他人のドラムを聞く機会があるのか、私は今こうして書いていても不思議だが、デモ演奏とかそういうことなのだろう。村上ポンタはこのドラムを大変気に入り、実際にアルバムに採用しようと考えたが、やはり打ち込みだからということで、結局自分で演奏することにしたらしい。
「根性がある」というのは、ドラムであれば例えば4小節ごとにオカズと呼ばれる、ちょっとした息継ぎ、あいの手のように連打や派手な音を入れるのだが、それがないことを指している。オカズ、というのは自分の自己顕示欲との戦いみたいな部分もあって、未熟な人ほど派手なこと、難しいテクニックの披露みたいなことをしてしまい、曲の雰囲気を壊してしまうのである。スタジオミュージシャンのインタビューで、若い頃有名ミュージシャンのツアーに呼ばれて、張り切って叩きまくったら、もう呼ばれなくなった、みたいな話も載っていたから、どんなに上手い人でもそういうときがあるのだろう。
と、ここまで書いて、「文章も同じように」と続けるのが野暮ったい気がしてきたのでここでやめる。
ちなみに私は誰かに尊敬されたいと思いながら、いつも書いている。