意味をあたえる

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ヴィーナスと猫

飯村は昨日から風邪を引いている。昨日の朝、会社のロッカーの前で作業着に着替えた際に、Tシャツと素肌の間に、空気のできたシャツをもう一枚着たような感覚になり、すーすーして寒気がした。やがて咳が喉と連動して熱を帯びたものに変わり、しかし周りの人々はそのことに気づかない。飯村は年中鼻炎持ちで、くしゃみをしているからである。

飯村ははるか昔の学生時代にも、これよりもずっと酷い風邪を引いたこともあり、熱も38度は確実にあり、しかし17時からコンビニのアルバイトがあった。電話して休もうかと思ったが、電話をして困惑されるよりも、無理して働いた方が気持ち的にはずっと楽な気がしたから、電話はしなかった。その代わりに、もし誰かに「具合悪そう」と言われたら帰ろうと決めた。しかし一緒にシフトに入った相手はオーナーの奥さんであり、奥さんはついに最後まで、彼の体調の変化に気づかなかった。飯村は、奥さんは実は気づいていたんじゃないかと疑った。熱に浮かされた頭でレジ打ちをしながら、その視界の先で生理用品の発注を行っている奥さんを認めながら。生理用品の棚は窓際の雑誌コーナーの向かい側にあった。その頃はもう日はとっくに暮れていて、窓の外は真っ黒だった。

ちょうどそのときも、今と同じ10月の終わりだった。季節の変わり目は体調を崩しやすいという、そんな当たり前のことを飯村は、最近まで知らなかった。あるいは、知っていても、自分とは関係ないこととして認めていなかった。ちょうど交通事故と同じように。車通勤の飯村は、昨日の帰り道も、いつ反対車線から車が突っ込んでくるのか、そうしたらちゃんと避けられるだろうか、を考えながら次々に迫ってくるヘッドライトの光の向きに注意を払っていた。橋を渡って道は緩やかに下り坂となり、そこに光の点がひしめいている。そのどれかが、飯村の事故の相手であると、まるで運命の相手でも物色するように飯村は眺めていた。しかし、同時にこの列の中の車とは決して事故を起こさないと、飯村は考えていた。事故とは、自分の予測の範疇外から発生する。だから、飯村が自分の交通事故を夢想するのは、自分を事故から遠ざけるためのオマジナイでもあったのである。

下り坂からはまた、釣り堀も見えたが、しかし今はすっかり日も短くなったので、暗くて見えなかった。釣り堀は四角形をしており、真ん中に橋が一本通されていたため、上から見ると「日」の字のような形をしていた。日の右辺には駐車場がつけられており、そこには平日でも2、3台の車が停められていたが、だからと言って、何か別の漢字に見えるわけでもなかった。その車は不思議なことに、必ず軽の四輪駆動車であった。あるいは、これは飯村の脳の欠陥で、軽の四輪駆動車だけが記憶に残るのかもしれない。駐車場は大変広く、そのため大部分が何もないまま放置されていた。駐車場は砂利である。

あるとき仕事を終えた飯村が、坂の途中でいつものように釣り堀を見下ろしていると、車の下から何かが飛び出してきた。猫だった。猫はそこらで土煙を上げ前、後左右を失いながら、何の法則性もなく暴れていたが、やがて堀の方へ一直線に走り出した。同時に今度は別の猫が、隣の車の下から出てきた、こちらは黒い猫であり、先のは白黒だった。白黒のほうが逃げている。白黒が目指したのは、1本の木だった。それは極端に葉のない木であり、葉があるのは太い幹が途中で曲がっている箇所に限られており、また枝も全て切り落とされ、まるで両手ないヴィーナス像のようである。

ヴィーナス像は、こちらからもそう見えるように表面がつるつるしており、白黒猫は、登るのに大変苦労をしたが、必死に爪を立て、どうにか黒が追いつく頃には、ヴィーナスの腰のくびれまで達していた。ところで、黒も猫なのだからそのまま追いかけて登っていきそうだが、黒のほうは木登りが下手なのか、根元を爪で引っ掻くばかりで、ちっとも登る気配がない。結果が伴わないから、はなから登る気がないようにも見える。黒はただ恨めしそうに鳴き声を上げているが、飯村のところまではだいぶ距離があり、また飯村は窓を閉めて冷房を入れていたから、鳴き声は全く聞こえなかった。やがて前の車のブレーキランプが消え、飯村も車を発進せざるをえなかった。今までは信号待ちをしていたのだった。信号は坂を下りきったところにあり、そこは五差路で、一度引っかかってしまったら結構な時間を待たなければならなかった。だから2匹の猫の必死の追いかけっこは、そこで待つ運転手全てが視線を注いでいた。猫からしたら、それが異様な光景だった。