意味をあたえる

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小島信夫「寓話」

書こうとしていることが3つほどあり、そのうち2つが幽遊白書小島信夫である。書きたいことが複数あるというのは、私の中ではあまり良くない、というか選ばなかった2つはこのまま書かない可能性が高い。いや、そうでなくて、迷ったら全部書かない方がいい。それか、全部書いた方がいい。というわけで、両方書いてみる。

小島信夫「寓話」について、少し前にお勧めですみたいなことを書いただけで、そのときは内容には触れなかったが、それはいまださんという、個人名から書き始めたせいで、やはり真っさらな状態で読み始めてほしいみたいな意識があったからではないか。しかし、ここで筋を全部書いたとしても、この小説の面白さには一切影響しない、と言い切りたいところだが、果たしてそうだろうか。

「寓話」と「美濃」を比べたときに、何故この2作が比べられるのかと言えば、私が読んだのがこの2冊だからだが、どちらが面白かったのかと言えば、「寓話」である。ではそれは何故かと言えば、ストーリーの面白さもあるからです。美濃は正直話としてはよくわからなかった。しかし、わからない、というのは今時点の私がそう思うだけで、読んでいたとき、私は確か声を出して笑っていた気がする。対して寓話は、ここでこういう人がこんなことを言って面白かったです、と感想文的なことを書くことができる。しかし、保坂和志はそういう理由だから寓話を評価したわけではないだろう。

ちなみに、小島信夫の最後の長編「残光」では、保坂和志も登場して、2人で何処かの本屋でやったトークショーに臨むシーンも出てくるのだが、その前後で小島が自分の小説ではなにが1番かと訪ねる場面がある。すると保坂は、
「寓話です」と小声で言った、とある。
私は保坂和志側の文章も読んだのだが、本人は小声で言ってないと主張している。つまり小島信夫は完全な自分の印象を書いただけだ。ではなぜ小声なのか? と考えるのが面白い。

たまたま小島の耳の聞き取りが悪くて、小声に聞こえてしまった、というのが正解だろう。けれど、印象を操作した、という可能性だってあるし、小説家ならそれくらいするだろう。しかし、この「小説家」とは「並の小説家」を指すから、小島信夫には当てはまらない。小島信夫は小説そのものだから、小説の方が、実際にその瞬間だけ小島の耳を悪くしたのだ。あるいは保坂の声を小さくした。

私はこの小声で教えてもらうシーンで、昔何かの本で読んだ「良いニュースは小さな声で伝えられる」という文句を思い出した。聖書だっただろうか? 小島信夫にとってそれが良いニュースかは知らないが、実にミステリアスで興味深い。

そして「残光」の中で、主人公の小島信夫は「寓話」を読み返し、本文の引用まで行っている。書いて以来初めて読み返したと言う。私としては「あそこはフィクション」みたいなことがあっさり書かれていて、少しショックであったが、「フィクション」という言葉をそのまま受け取っていいのかわからないのも、この小説家の魅力である。

「寓話」の話をするつもりが、「残光」になってしまった。幽遊白書については、次に書きます、書けたら。