意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

私は少しは空っぽに近づいたのか

私がこのブログを始めた理由は特にはないが、あるときふらっと始めてそれが一年前の話で特に途切れることなく今も続いている。私はとにかく出し惜しみせずに書き、愉快だった思い出とかそういうのをおもしろい順に書いたら、いつかは書くことがなくなるだろうと思った。空っぽになったらどんな感じなのだろうか、と思いながら、このブログを始めた。しかし、そう簡単には空っぽにはならないだろう、とも予想していた。そしてその通りで、書き始めた頃の私から、何かが目減りしたような感覚は、今のところない。でも、昨日もTという教師に殴られたときの話を書いてしまい、あれは私の中ではけっこう大きな出来事だったから、やはりもうそういうことの選択肢は減ったのではないか。私は昨日の記事を書きながら、少し心が乱れた。Tはやはり理不尽だ。それを、
「殴り慣れている」
なんて専門家みたいなことを思ってないで、私自身が暴れてTの机の物をめちゃくちゃにしたり(Tの机の上には、ムーミンのマグカップがあった)、あとから親に言いつけて教育委員会にでも言いつけてもらうとか、そういうことをしても良かったのだ。私の親は体罰に関しては自分なりの考えを持っていて、それは殴って言うことを聞く年齢なら殴る、というものだった。私が幼い頃は、父親はとても怖くて、私がなんでだか忘れたが泣いていると、それがうるさいと言って、窓から外へ放り出そうとした。私の家は平屋だったから、実際に放り出されても、怪我はしても死にはしなかっただろう。しかし、三歳だった私はもしかしたら死ぬかもしれないと思っていたので、網戸の端に必死にしがみついて放り出されないよう踏ん張った。よく網戸が外れなかったものだ。私は当時はまだまだ非力で、小さかったのだ。そう考えると、父もそうとう手加減していたのだ。父も非力な男なのかもしれないが、座椅子の脇には重さ6キロの鉄アレイが合ったり、あと、握力を鍛える鉄がぐるぐるまきにされた器具とかあった。6キロの鉄アレイはあるときに8キロに変わって、それは今でも座椅子の脇にある。私はたまに面白がって志津やネモちゃんに持たせて、「死ぬー」とか言っているのを聞いて大笑いして楽しんでいるのだが、私はもちろん窓から彼女たちを放り投げたりしない。そんなことをすれば私の方が放り出される。私よりも6歳下の弟も私と同じような目に遭い、ただし弟のときは玄関から追い出されそうになっていた。泣き止まない弟に父は最初
「白い袋をもったおじさんがきて、その人は泣いている子がいると袋に入れてどこかへ連れて行ってしまう」
と脅したが、それは逆効果で弟はますます大声で泣いた。白い袋のおじさんなんて、私はサンタクロースしか思い浮かばないが、父はどうしてそんなキャラを作り上げたのか。父は真面目な人間であるが、真面目すぎてずれているところがあり、私が大学くらいのときに初めて携帯のメールを設定したが、そのとき送られてきたメールの文面が
「悔いのない青春を送ろう! 父より」
だった。ギャグなのかもわからないし、メールだと無駄に爽やかになってしまうのだった。母は逆にクールな女で、何を送っても、
「はーい(手のひらの絵文字)」
としか返さない。私の一家はたぶん端から見たらクールな一家で、私はそういうのを見ても何にも思わないが、妻がそういうのを受信すると、
「怒ってるのかしら」
と不安になる。しかし、現実では怒ってばかりなのは妻のほうの一家ばかりなのである! 体罰の話に戻すと、父は私たちが就学前くらいまでは、体罰をしたが、大きくなると
「殴っても言うことを聞かないのに、殴っても無駄である」
と言って、本当に殴らなかった。父には感情とか、そういうのがないのかもしれない。