テレビ東京で廃墟の番組をやっていることを知った。私は廃墟好き(ところでこの廃墟のきょの字ってなんですか? 私はてっきり虚かと思って何気なく打っていたら、ぜんぜん違う字なので焦った。旧字体なのですか? 右下のぶぶんが万歳しているように見えるし、あと鼻の大きな人の顔にも見える。不機嫌そうです。あと、「旧」という字を書いて思い出しましたが、私のよく読むブログでキューカさんという人がいるのですが、私が勝手にそう読んでいるだけだけど、ふと、これを漢字にしたらどうなるか、という流行りが私の中で生じた。私は仕事をしているけれど、暇なのである。及川? と最初思ったけれど、これでは「おいかわ」と読んでしまうし、限に私はおいかわ、と打って変換したから、私はとんだ背信者である。ユダである。
そういえばこの前軽井沢へ行ったときに、風呂で高校時代の友達に似ている人を発見した。彼は窓際のロッカーを使い、私は風呂の入り口のロッカーに衣服を入れた。それがいちばん、合理的だと思ったからである。しかし、合理的だと思うのは私以外にもいるはずで、それなのに、入り口付近のロッカーがこんなに空いているなんておかしいと思った。風呂はそれなりに混んでいた。私は洗い場がなかなか空かなくて、立ち尽くしているくらい、風呂場は混んでいた。私は入り口付近のロッカーを選ぶメリットとして、洗い場からロッカーが見通せるからで、もちろん私が風呂や、露天風呂に行ってしまえば見えないのだが、それでも誰かの目は見ている。そのロッカーというのが、鍵のかからない、宿屋のようなロッカーだったので、防犯的にも有利、と私は判断したのである。にもかかわらず、他の人は窓際とか水道の近くのロッカーばかり使い、私はおかしいと思う。なにか私の知らない情報があって、合理性が裏返っているのかもしれぬ。たとえば、ヤクザ専用の棚だとか。洗い場には、入れ墨をした人もいた。スネに今風の黒いタトゥーを入れていて、その人は子供の背中を流してあげていた。子供のすねには入れ墨はないし、また、子供自身が入れ墨というわけでもない。子供は肌が白くてつやつやしていた。
それで、ロッカーで見かけた高校時代の友人というのが、高校時代「キリスト」と呼ばれていて、実際呼んでいるのば私と、あとひとりくらいだった。実際キリストに似ていたのである。似ていた、てあんた、実物見たことあるの? と意地悪な人に訊かれそうだが、私の言うキリストとは、「ジーザスクライストスーパースター」の映画に出てくるキリストなのです。
とにかく私はその若者をキリストと呼んでいて、実際本人をそうは呼ばずに影で「あいつキリストに似てるなー」くらいに言ってた程度かもしれない。「キリスト」っていうのが、いかにも素人っぽくていい。通なら「イエス」っていうだろう。「ジーザス」でももちろんよい。
ここまで書いてから一度読み返し、私の文章がいかにめちゃくちゃで、たとえば「ユダ」という単語が出てきてから「キリスト」が出てくるまでの間隔のナンセンスさを自慢したいと思っていたが、読み返すとすごくまともで、私は困惑した。もっとめちゃくちゃが良かった。私はそういえば、廃墟について書こうと思っていて、そこで括弧をつけて話を脱線させ、そういうのはつまりリアルタイムなんだな、と最近気づきつつあって、リアルタイムとはつまり今のこの瞬間を切り出す行為を指し、今というのは書き出す前ではないから、前もって書こうとしたことを書くのはちっともリアルタイムではない。だから考えるよりも先に書くのだが、書き出すのは論理でなくて欲望だ。私は今、めちゃくちゃーめちゃくちゃーと念じながらこれを書いている。BGMはトニー・ウィリアムス。ライドシンバルがちんちきうるさくて、ちっとも文章に集中できない。
それで、私が彼を「キリスト」と呼んだ理由は、私が彼に「ユダ」と呼ばれたかったわけであるが、しかし、あるとき彼に、
「お前は自分のことをユダ、と呼ばれたがっているようだね? (ようだね? がキリストっぽい)しかし、お前はちっともユダなんかではないし、ましてやペテロや熱心党のシモン、美形のヨハネでもない。せいぜいバルトロマイ、と言ったところか」
と言われ私は傷ついた。というのを三日くらい前のブログに書こうと思ったが書けなかった。
それで、及川さんのことだが、及川さんでは「おいかわさん」になってしまうから、それじゃあ旧川さん、ではどうだろう、ということになった。旧川さん、という名字が実際にあるのかは知らないが、新川さんがいるのだから、旧川さんがいたっておかしくない)
話はようやく廃墟に戻るが、テレビ東京で今、廃墟の番組がやっているらしい。私はさっそく、廃墟好きの先輩に昼ごはんのときに、
「そういえば、今廃墟の番組やってるの知ってます?」
と尋ねたら、先輩は知らなかったが、後輩と、あと派遣の人が知っていた。派遣の人は私たちよりも年上で、赤のトヨタポルテに乗ってきている。後輩に
「どう?」
と訊いてみたら、
「あんましですね」
とのこと。赤いポルテではなく、廃墟の番組についてである。後輩は特別廃墟が好きというわけではないが、確かに私も番組のホームページを見たときに、引っかかるものがあったんだ。それは項目の中にストーリー、というのがあって、それを見た瞬間に、
「死んだ父の夢を追いかけて」
とかだったらどうしよう、と嫌な予感がしたのである。結局読んでないから、どういうストーリーなのかはわからない。とにかく見る気が少し失せてしまった。後輩が、
「なんとかって俳優が出ています」
と情報をくれたが、私の知らない人だった。
「テレビは今はクレイジージャーニーと、100分名著しか観ないからわからない」
と言ったら、
「俺も観ませんよ。テレビを点けるといつもその人が出てくるから、自然に覚えたんです」
と何故か不機嫌になった。
昔タモリがタイタニックが流行ったときに、いいともで「観ました?」と訊ねられたときに、
「俺は船は好きなんだけど、恋愛が駄目なんだ。だから迷ったんだけど、結局恋愛を飛ばして見た」
と答えていたのを思い出し、それなら廃墟も「ストーリー」を飛ばしながら見ればいいじゃないか、ということになり、そういえば最近「フューリー」という戦争映画を借りて観たのだが、私は戦争映画、が割と好きで、人がばたばたと死んでいくのが好きで、そうしたら、途中でやけに女とベタベタするシーンがあって、
「ああ、邪魔だなあ」
と思ったが、相手のドイツ女が妙に色っぽくて気に入ってしまったのですよ。途中で野蛮なのが入ってきて、
「俺にもやらせろよ」
となるんだけど、ブラピが、
「やめろ」
と言って、ブラピは一応上司だからやめるんだけど、そのあと女にちくちく嫌がらせして、唇をびろびろつねったりするのが、良かった。唇は女性器の象徴である、とでも言いたげであった。とにかく食事のシーンが面白かった。ファンタジーであった。対して、戦いの部分は、戦車が死体をぺっちゃんこにしたりするのは愉快だったが、全体的には物足りなかった。戦車同士のバトルは少し燃えた。
それで、賢明な人なら、廃墟の番組は録画してちょっと観て、良ければ全部観て、駄目なら消せばよい、と思うかもしれないが、私はあらかじめ良し悪しを決定しないと、何も行動が起こせない人間なので、たぶんその番組はもう見ない。
ものを書いているときに聞こえる他人の声(○○と思われちゃうんだろうなー等)はほとんど自分の声なので、気にする必要ないし表明(○○と思われそうですが)もいらないです。
— fktack (@fktack) 2015年7月23日