意味をあたえる

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エイモス・チュツオーラ「薬草まじない」

先週くらいに友人の結婚式に行き、その帰りにエイモス・チュツオーラ「薬草まじない」を買った。結婚式場はかなり勾配のある坂を下ったところにあった。なので帰りが大変だった。帰りが登りだったからである。私たちをなぐさめるように途中に神社があり、都内の神社というのは古ぼけていなくて屋根も切ったばかりのヒノキのように肌色で、とても入りたいと思わない。新興宗教の施設のようで、なんだか知らない人に住所とか訊かれそうでとても入りたいと思わない。結婚式場はとても大きく体育館のような建物の中に五階建てのビルがあって、エスカレーターやエレベーターで上に上がった。滝も流れていた。都内で式を挙げると、四階で挙式、二階で披露宴、なんてことがざらだった。ウエディングドレスの裾が汚れないように、エレベーターは広めに作らなければならず、病院で使われているのと同じサイズで設計するらしい。私の妄想だが。

そうしたらその次の週くらいに義父母が同じ式場に行って、最初は地名がおなじだからひょっとしたら同じ式場かもね、と言い、私はちゃんと施設名を覚えていたからゆったが、向こうがそういうことに興味ないからおそらくあんなでかい式場はそうはないから同じだろうがはっきりしない。なので私は
「坂がキツかったら同じです」
と言ったら
「車で行くから」
と言われた。それで、行って、帰ってきたら
「600万円かかったらしい」
と教えてもらい、やはり大きなところはお金もかなりかかるんだな、と思っていたら次の日
「しかし600万なんて○○君(従兄弟の名前)はお金持ちですね」
と言ったら義父に
「600万もかかるのかよ?」
と逆質問され私はびっくり仰天した。義父は昨晩はだいぶ酔っぱらっていた。

全国のエイモス・チュツオーラファンのみなさんこんにちは。私は上記の結婚式の帰りに本屋に寄ったらたまたま新しいのが岩波文庫から出ていて驚きました。買いました。全国にどのくらいのファンがいるかはわかりませんが、私がこのブログを始めたら二人くらい「おもしろい」と言っている人がいたので、その人たちは、無条件に買った方がいい。あと全然読んだことのない人も、小説が好きなら死ぬまでに一度は手に取った方がいい。

「薬草まじない」はチュツオーラの後期の作品で、「やし酒飲み」は前期だ。そのため、目につく部分ではまず時間の概念が導入された。「午後二時まで歩き続けた」「120分間麻痺していた」などの表現が出てきて、しかしだからなんだという使い方をされ、ますます小説っぽさから離れている。肩から肘にかけての長さについても、数字で出てくるようになった。

それと今回はお供がいて

 わたしは、道づれになる人間の徒歩旅行者、つまり伴侶が一人もいない状態で出立したのだったけれども、わたしの第一の〈心〉と第二の〈心〉という伴侶がわたしについていたし、わたしの二つの〈心〉がわたしに指針を示すことができなくなったり、わたしを見すてるようなときには、第三の伴侶である〈記憶力〉がわたしを助けるつもりになってくれていた。

そしてこんな感じでアドバイスしてくる。

 岩の上に夜が迫り、あたりがよく見えなくなったとき、第一の〈心〉が、もうこれ以上度を続けることはできないのだから、岩のてっぺんで眠った方がよいと告げた。だが第一の〈心〉がわたしにそう忠告したとたんに、第二の〈心〉がこれをさえぎって、岩の近辺に、夜通し蹲踞の姿勢でうろつきまわる残忍な男が住んでいるので、もし今夜この岩の上で眠るようなことになるととんでもない罰を受けるだろう、その男は夜になると出てきてわたしを罰として殺そうとするだろう、しかし最後にはその男から逃げられるだろうと言うのだった。間違ってわたしを導いたことのない第二の〈心〉は、そう警告してくれた。

私は第二の〈心〉のこのアドバイスを読んで
「しゃべりすぎだろ」
と突っ込みを入れてしまった。残忍な男に遭遇するという一種の予言はいいけれど、最後には逃げられる、というのは言いすぎではないか。読んでいるこっちの緊張感に水をささないでほしい。しかし、これこそ、物語、小説、フィクションの洗脳であることに、私はすぐに気づいた。普通に考えれば、物語の登場人物は、読者という存在を知らない。むしろ自分こそが「読者」だと振る舞うのが、本当の「登場人物」である。上記の引用でいけば、主人公を助ける第二の〈心〉が、未来を見通す能力を持っていたら、まずは結末を知らせるのが普通だ。〈心〉なら、体が死んでしまったらおそらくその自由を奪われてしまうから、
「恐ろしい野生の人間に遭うだろう」
なんて、むやみに不安をあおる言い方をしない。大丈夫だろう、とか、これこれて対策すべし、などとアドバイスするのが本来の役割だ。しかし、そういうことを私たちは野暮だと感じてしまう。いかに読み手の心をつかむか、盛り上げるか、最後まで読ませるか、に気持ちが行き過ぎて、肝心の自然さ、が犠牲になる。そのことに勘づいた作者は、今度は例えば〈心〉は実は主人公の味方ではなく、ある目的をもっている、とか、この旅はある種の試練だ、とか設定で乗り切ろうとする。設定だらけの読み物はたくさんあるが、それこそ野暮だ。

※引用は岩波文庫
※蹲踞、は、そんきょと読みます。