意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

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昨晩「ふくらんでいる」で書いた続きにもなるが、ここで私がただ「ふくらんでいる」と書いても知らない人もいるだろうから、そういう人には私が架空のブログの話をしていると思うのかもしれない。私はもう一年以上このfktackという活動をしているが、私が思うに、fktackなら架空のブログの話でも、何食わぬ顔でやってしまいそうな気がする。ものを書くときに、多くの人はそれが現実なのか非現実なのかにこだわるが、私がやってきたことはその境目を曖昧にする作業だ。しかしそれは書いている途中段階で気付いた。

それで映画「セッション」の話だが、私がこの映画のとくに後半にかけて気にくわないのが音楽に対するリスペクトが、まったく見られないところだ。先生は復讐に音楽を利用した。たぶんこの人は音楽によって今の自分があると、全盛期には軽々しく思ったのだろうが、ひたすら音楽を自分に従わせることしかせずに、結果身を滅ぼした。滅ぼしてもまだ気づかない。それがすごく嫌だった。あと、楽器が終始ないがしろにされているのも気にくわなかった。強調されるのは演奏者の肉体ばかりであり、汗だとか、血だとかやたらと噴き出る映画であった。そういうのをエンターテイメントと呼ぶのだろうか。私は昔ドラムをやっていたから、シンバルに血までかけて、終わった後ちゃんとそれをふき取ったのか気になって仕方がなかった。あれだけ限界まで肉体を酷使した後だから、メンテナンスなんてしないのだろう。学校の備品だし。シンバルが錆びたら音は変わるし、そういう繊細さがなくて、果たして「一流のプロ」などになれるのだろうか。ここに出てくる登場人物はひたすら自分しか見ていない。余談だがスティーブ・ガッドという超一流のミュージシャンはわざと割れたシンバルを使用する。ベストな割れ具合も相当研究した。映画のシンバルは常に光っているから、スタッフが懸命に磨いたのだろう。

私は最近小説でもそうだが、映画やドラマでハラハラする展開に耐えられなくなってきた。たまに病気でもうすぐ死ぬ系のドラマがやるが、ちょっとしんどくて見れない。「セッション」では人は死ななかったが、最初に主人公が映画の受付のアルバイトをしている女の子をデートに誘うのだが、それはうまくいって
「じゃあ月曜の七時ね」
となったのだが、そのときは鬼教官に気に入られ始めた時期と重なり、
「朝六時にAスタジオ、一分でも遅れたらもう見ない」
とか言われていて、そういう鬼が七時までに家に返してくれるのか、果たしてデートができるのか、気が気でなくなってしまった。ドキドキする自分が恥ずかしいから、よっぽど見るのをやめてしまおうかと思ったらあっさりピザくって、丸テーブルの下ではつま先をつつき合って、お互いまんざらでもない顔をしていたから私は安心した。結局サンドバッグみたいな振り方をするのだが。

あと初めて見たデビッド・リンチの映画が「マルホランド・ドライブ」だったが、あれも結構ハラハラする場面とか、いきなり頭のおかしそうなおっさんが壁の影から出てきたりして私はビビってしまい、もう映画どころではなくなってしまった。だからその後「インランド・エンパイア」を見たときも、最初にやっぱり気味の悪い婆さんが意味不明なことをしゃべりまくるシーンがあるが、突然頭が爆発とかするんじゃないかと冷や冷やした。インランド・は、全体的に暗ったい印象があって、そういう映画はなかなか繰り返し見ようという気にならない。マルホランドはタクシーが黄色かったから黄色いイメージで、マルホランドはまた見たいなあと思う。

小学校のころ最もドキドキしたのは、四年のときに読んだシャーロックホームズで、バスカヴィル家の犬で、ホームズが中盤でワトソンを現場の屋敷に残して家に帰ってしまうところで、私はワトソンが犬にかみ殺されるのではないかと、やはり気が気でなかった。そうしたらホームズは案外近くにいた、という展開だったので、私は心配するだけ損だった。小学校の図書館には小学生向けの内容に変えてあり、タイトルも「呪いの魔犬」といって、表紙にはセントバーナードみたいな耳が垂れ下がった犬が、目のぶぶんが青白い鬼火になっていて、それが柵かなんかを飛び越える場面が描かれており、私はそれだけで震え上がった。緋色の研究、は「赤の怪事件」というタイトルだった。大人になって読み返したらあんまり怖くなかった。