意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

大人と子供の境界

私が参加している「ふくらんでいる」の中で、参加者が最近タイトルのようなことを盛んに話題にしている。みんな境界探しに躍起になっているように見える。私の記憶が確かならば、このことについては最初に私が書いたから、このように他の人が考えてくれるのは光栄である。しかし私はさほどそのことについて、真面目に考えているわけではなかった。私は単に、大人は子供の延長にすぎないとか、大人はもっと大人だと思っていたが、いざなってみるとそうでもなかった、という考えに賛同できないという話なのであった。それは感情の話なのであった。だからそこに理屈をくっつけると、大人と子供のあいだには境界線がある、ということになる、という話しだった。私のイメージだとこの境界線とは、赤道のようなもので、地図上には便宜的に書かれているが、実際の海上、あるいは陸上、海底に線が引いてあるわけではない。宮崎駿の「雑想ノート」の中に、戦闘機に乗った軍人が新人に向かって、
「ほら、外を見ろ、赤道が見えるだろ」
と真顔で外を指し示し、新人が必死で目を凝らす、というコマがあった。先輩の言うことは絶対だったから、新人は泣きそうになりながら赤道を探したのである。

私は私が子供の頃に見ていた大人と、現在自分がなっている大人は全然別物だと思っている。私が子供の頃は、やたらと「卒業」という言葉を言われた。私は玩具が大好きな子供で、小学校時代はトランスフォーマーが好きで、その後はガンダムのプラモが好きだった。どちらもテレビアニメが元になって発売された玩具だったが、私はアニメは一切見ず、ひたすら「原作・私」で楽しんだ。弟が大きくなると弟も巻き込み、例えば目覚まし時計をひっくり返すと中側が少しへっこんでいるので、そこを「山荘」に見立て、キャンプに来たような設定で遊んだ。去年の正月にそういえば弟と会ったときに言っていたが、
「俺はプラモデルをまともに組み立てたことがない」
と言っていて、過去の記憶が消えるくらい弟の仕事は過酷なのかと同情したが、よく聞くと、プラモの類はぜんぶ私が組み立てていたらしい。私は早い段階でプラモの本当の楽しみは組み立てている最中にしかなく、できあがった後のままごとは、ただのオマケである、ということを見抜いていたから、そんな美味しい部分を弟に譲るわけにはいかなかったのである。

私はそういえば小学校のころのクラブ活動では将棋・オセロ部と図工部を行ったり来たりして、図工部時代には、自由に何でも作れというから模型屋でモーターを4つ買ってきて板に貼り付け、そこにギアをくっつけてキャタピラで巻き、お手製の戦車を作ったら、ギアは回るのに、ちっとも走らない。ついに最後まで私の戦車は走らなかったが、先生が言うにはモーターそれぞれの回転数が違うのに、キャタピラでつないでしまったから、お互いが足を引っ張り合って走らないのだ、と教えてくれたがそのときも今も
「本当にそうなのか」
と納得できない。図工の先生は
「しかし、発想は良い」
と褒めてくれたが、走らなければ意味がなかった。そもそもその戦車はキットで売っていて、説明書とおりに組み立てれば走ることは保障されていたのに、私は無駄にギアだのシャフトだの使うより、動力に直接キャタピラを巻きつければよほど合理的だ、と思い、完全に無視したのである。シャフトルイはみんな捨ててしまった。あるいはそれはあくまで遊びではなく学業の一環だから、どこかしらにオリジナリティをくっつけなければならず、そういう大人の意図を私が汲んだ結果だったのかもしれない。

私はそういう人生を歩んできたから、現在もさぞ組み立てることが好きな大人に違いない、と思う人が多いだろうが、実際はそうはならなかった。先日妻がどこかのサイトで簀の子を組み合わせて靴箱を組み立てる、というのを見つけ、早速自分でやりたいと言ってセキチューへ出かけた。簀の子は職人の出入りするやたらと天井の高い「資材館」に売っていた。資材館は早起きの職人に合わせて朝7時にオープンする。私たちが行ったのは午後三時過ぎだったから、人っ子ひとりいなかった。妻はそこで思う存分簀の子を吟味した。たしか暑い日だったが、天井が高いので涼しかった。

元はと言えば、玄関に下駄箱を置きたいと言い出したのは私だった。もちろん住んでいる家には下駄箱があり、その上には電話機が置いてあった。下駄箱の上に電話機を置くのは農村地帯によくある話で、私の実家や実家の父の実家も、みんな玄関に電話があった。それは野良仕事をしている最中に靴を脱がずに電話に出るためであった。義父はずっと勤め人できれいな靴を履いているから、玄関に電話を置く意味はなかった。下駄箱には履きもしない義父母の靴がいくつも詰め込まれており、その合間に最初私は自分のブーツを横向きにして入れたりしたが、ある時雨の日に、いいのがあると義父が履いて出かけようとしたので、私は許可はしたが、帰ってきたら捨ててしまおうと思った。出かける前に妻が止めたから、捨てることはなかった。そのブーツがいいものであるのは間違いなかった。そういう経緯があって、こんな風に書くと私が義父を憎んで下駄箱を欲しがっているような印象を与えるが、私は実際はあまり気にしてはなかった。下駄箱も最初は妻があまり良い顔をしなかったので、私もそこまで説得する気にもならず、いつのまにか欲しい気持ちもおさまった。

そういうところに突然妻が自作の下駄箱を用意しようとしたから驚いた。私たちは同じサイズの簀の子を四枚か五枚買ったが、私は形にはならないと高をくくっていた。簀の子同士は、グルーガンという、糊を高温で溶かす道具を用いてくっつけるという。グルーガンは百円ショップで買ってきた。私は端から手伝う気などまるでなく、最初はグルーガンのコードがあまりに短いから、延長コードがあれば便利そうだが、それを貸すことも渋った。作業が終わったら、その辺にほったらかしにするのが目に見えていたからである。しかしそうなったら私がこっそり片付ければいいだけなので、結局貸した。子供たちが亀のような姿勢で作業を始めたからである。

果たして、簀の子は糊ごときではくっつかなかった。妻の機嫌が次第に悪くなった。私は自室にこもって知らんぷりを決め込んだ。音楽なぞ聞いた。子供たちは私のほうが機嫌が悪いと判断し、決して扉を開けなかった。しかしそこで義父が助け船を出し、簀の子を釘でとめたので、結局下駄箱は完成した。