意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

手湯

今日はまたいちだんと寒いから、午前中から手湯をした。手湯とはお湯に手を浸ける行為を指す。作業場の流しにお湯を張って、そこに手を浸けるのである。流しは丸っこくて白い陶器の一人用のトイレによくある形のタイプで、だからそれほど湯は張れない。なので私は手を直角に曲げ水面に対して手が平行になるようにし、お湯に浸る手のぶぶんを増やすそうして浸けると、流しの底は丸っこいので、私は手を背中のように曲げる、しかし底はあまりきれいでもないから、下まで手が付かないよう注意した。私は掌を上に向けていた。私は寒くなるとよく手先が冷えた。手先だけでなく足先も冷えた。足先はここ数年では速やかに靴下を履くようにし、裸足でぺたぺた歩かないようにしたら、あまり冷えなくなった。しかし布団に入ってみる、実はけっこう冷えているので私は冷えていないほうの足の膝の裏に足先を差し込み、温める。温まらないと眠れないからだ。しかし冷えていないほうの足などないから、両方の足を交互に差し込む。時には両足同時に膝裏に入れ、胡座のような、ヨガのポーズになる。しかしこのポーズはときたまにしかやらない。なぜかというと、両方を曲げてしまうと、伸ばしたときに触れる布団のぶぶんが冷え切っているから、また冷えてしまうからである。片方が膝裏で温まっている間、もう片方は布団が冷えないよう保守せねばならない。

ここまで書いて、なんで湯たんぽを使わないのだろう、と自分で不思議に思った。世の中には文字に起こさないとわからないこともある。私が湯たんぽを使わないのは妻や子供は暑がりだからで、妻なんかは昨晩も半袖で寝て、今朝ようやく
「寒い」
と言ってパーカーを着た。この気温で悠長に「寒い」なんていえる人は暑がりののんき者である。寒がりなら、今朝の気温なら
「死ぬ」
と思う。もしくは思わない。私は朝などはなるたけ記憶を飛ばし、自分が寒く感じた過去をなくそうと努めている。それが冬をやり過ごす効率的な方法だと、最近気付いた。足先の冷えを最近は感じなくなったのも、そういう感覚を無視するようになった賜物だろう。