私はこのブログを今のところ毎日更新しているが、数日前
「そうすることがあなたにとってどんなメリットになるのですか?」
という言葉をTwitterか、ブログで見かけ、それは私宛の質問ではなかったものの、それから「メリット」という言葉についてぼんやり考えている。
あとこれは昨日の話だが、毎日更新していますという記事を書いているのを読んだら、コメントで「毎日書く理由が日記とかなら良いが、アクセスアップなら...」とあった。「...」に込められたメッセージは、「意味ないからお止めなさいよ」といったところだろうか。
今日になって私がこうして書き続けている理由というか根拠は、私の書く態勢が、そういった理屈にとらわれていないからではないか、と思った。私は日々なんとなく書いている。例えば文章がうまくなりたいとか、深めたいとか、そういう下心もあるが、それがしっかりとした「理由」になってしまうと、もし「文章がうまくなりたければ、書くよりまず読みましょう。往年の名文家の平均読書量をまとめました(以下グラフ)」みたいなのを読み、私が
「なるほど」
と納得したら、もうその先は書けない。理屈は理屈に弱い。たとえ間違っているとか、変だとか、そういう気がしても、気がするというレベルに止まる限り、理が通っていると、どうしてもその「気」を無視してしまう。
なんでも長続きするのが良いという風潮の中で、モチベーションとか動機付けとかそういう言葉を持ち出すのは矛盾している。それらの言葉は効率化の類であるから、どちらかといえば損切りとか踏ん切りとか、そういうのの後押しをするための言葉である。効率化とは、極論を言えばなんでもコンパクトにして短縮することである。
話は変わるが、私は最近ハイデガー「存在と時間」という本を読んでいて、これは光文社古典新訳文庫から出ているものだが、全体の三分の二が解説という、大変気合いの入った書物である。私はハイデガーの書いたところのみを読んでもほとんど意味がわからなかったが、わかるわからないが読書の醍醐味ではないと思っているからそれはそれでいいから普段は解説はすっ飛ばすのだが、やはり三分の二も残ってしまうと読んだ気にならないから読む。すると易しいぶぶんもあって、
「こういうロジックだったか!」
と膝を打つ場面があったり、
「この人はこんな風に解釈しているが、ちょっと違うんじゃないか」
と疑ってかかる場面がある。疑う場面は主に例えが使われる場面であり、例えとは魔法のような、あるいは麻薬のような装置であり、あまりに気持ちがいいから、事実や主張のねじ曲げに、書いている方も鈍感になるぶぶんがあり、だから読むほうは慎重に読み進めなければならない。しかし私は研究者とかではないから、あまり慎重になる意味もない。
それで、私がこのブログで言わんとすること、書き示したいと思っていることは、すでにハイデガーが書いてしまっていることに気づいた。例えば私が過去の話ばかりを持ち出すこと、また、私がこのブログに登場させる「私」とは一体何を指しているのか、それらの答えはすべてハイデガーに示されてしまっているので、もはや私がこれ以上なにかを書く意味はないのである。
解説を読んでいて不明瞭な箇所、また「存在と時間」は全部で七巻か八巻あると言うので、それらには私がこれから語ろうとすることが、書かれていると予想する。