意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

アドランド

どういうことなのか、ここ最近私がアドラーの考えを学生と哲人の対話形式にまとめた「嫌われる勇気」という本を読み出したら、ネットでも話題になった。私が影響を与えたのか、それとも私が受けたのか。どちらにせよそういうこともあるだろう、という心境だ。ネット上の掲示板ではアドラーは是か非か、みたいな構図になっているが、私はちょうど今朝あたりに読んだ箇所で、「自分の正しさを主張しない」というのがあったので、
「お前のアドラー理解は間違っている、本当はこうだ」
という人は、その時点で馬脚をあらわしている。私は「正しさ」のぶぶんを「正論」と置き換えて読んだが、世の中の、正論にさえ寄りかかっていれば、それでよいと考える人のなんと多いことか。どうして寄りかかるのかといえば、正しさとはいわば思考のショートカットであり、正しさは放っておいても腐りはしないとみんな考えるからである。つまりみんなは考えたくはない。いつでも取り出したらすぐに使えるようなパッケージングされた正しさを、懐に忍ばせておきたいのである。

私はいわゆる「強い言葉」が苦手で、強い言葉とは例えば、
「今まで出会った中で最低のやつ」
みたいな、時間軸までも支配する言葉である。今まで、と簡単に言うが、今までのすべての記憶がすべて整然と脳内に並べられている人なんていないのだから、「今までで最低」なんて、そんな軽々しく使えるものなのか、私はいつも疑問に思う。もちろん、最低な人というのは最低であるのだから、記憶に残るのが普通であり、逆に残らないのなら、それほど最低でもないという理屈もあるのだろうが、長い時間の中で、赦してしまったぶぶんもかなりあるのではないだろうか。

このように私は保留、ペンディングの天才であり、その人が最低に値するかどうか、長い時間をかけて検証していくのだが、時間をかけていくと、その最低さには自分の性格もおおきく影響していることにも気づくのである。私はとにかく矛盾のある言葉を吐くのが生理的にイヤで、そうすると軽はずみな言動がイヤであり、感情に流されるのがイヤであり、そうすると冷たい人間とか独特な思考回路とか言われる。「あのときの自分は少しおかしかった」
とか言いたくないのである。

ところで私がその辺に置いといた「嫌われる勇気」のタイトルを見た妻が、この本はひどい本であると決めつけ、私はとっさにタイトルの「嫌われる」とはいわゆる客引きの言葉であり、イメージのアウトロー入門の類ではなく、その根拠として帯に書かれた「230万部突破!」の文字を見せ、こんなにたくさんのひとが読むのだから、これらの人々が全員世捨て人になりたいと考えるはずもなく、逆に言えばこの本を評価しないのなら、君は230万人の人格を否定することになる、と反論しようとしたが、この記事の前半に書いたとおり、自分の正しさを押し付けても復讐されるだけなので、私はニコニコしながら、
「そういうんじゃないよー」
と返しておいた。

関係ないが、妻の足の裏が最近裂けてきているらしい。