意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

公式

二日ほどまえの記事で、「この記事における言いたいことは、これである」という旨の言及をいただき、私としては特に言いたいことがあって日々文字を並べているわけではないから、いっしゅん
「言いたいことは特にないです」
と指摘しようと思ったが、言いたいことのない文章なんてあるのか? そもそも自分の介在しない主張というものが、たとい100パーセントの自分の手から生み出されたものだとしてもあるのではないかと思ったのでやめた。そもそも「これが言いたいことだ」とわざわざ指摘してくださったのに、「ありません」とむげに突き放すのもどうかと思ったので、「正解である」と、思い直した。あくまで私の頭の中の話である。じっさいその文は最初は違うことを書いていて、書ききってから直した箇所だったので、私なりの感情の●●があったと思われる。

それは「日常とは今」的な文句であった。

私としては「そんなん、あたり前やんけ!」という読者の突っ込みを想定しての文であった。でも○年前の日常、なんて言い回しもあるから、私が思うほどあたり前でもないかもしれない。しかし、なんの修飾語もつけずに日常と言ったら、現在のことを指すのではないか。

一方私は記事を最初から読んだ人は、そんな突っ込みをしないだろうと予想していた。私は極めて狭い視野の理屈を積み重ねていって、そこから書く前には思いもしなかったことを導き出すのが好きなのである。恣意的な理屈をなるたけ避けていくと、ほんとうにこれでいいんだろうか、みたいな結論にたどり着くことがある。それがすごい、すごくない、や価値の有無は関係なく、私としてはそこまで思ってはいないが、ここまで書いてみると、こういう考えにならざるをえない、というところに来て始めて「書いた」という満足を得ることができるのである。その対局がポジショントークと呼ばれるものなのだろう。

保坂和志がある著書の中で
「死刑制度はこれこれこうだから、よろしくない」
という旨をのことを書いた数年後、保坂の父親が亡くなりそれは交通事故だった。加害者はその後保坂に
「線香あげさせてください」
と言ってきたが、保坂は断った。この行動をかえりみて保坂は自分はやはり死刑制度賛成派なのではないか、と考える。と、別の著書に書いた。

このことについて私は「保坂すごいな」と思った。なぜなら私はそのことを分けて考えていて、昔友達がとある漫画を読んだことを私に教えてくれ、その内容は弁護士が主人公でこの人は死刑制度反対だったが、家族を殺され、その犯人が死刑にならないと、法律が裁けないのなら自分が裁く、と犯人を殺すというものだった。私はそのときは若かったから弁護士の行動を一笑に付し、感情と理屈は分けて考えるべきで、私はたとえ家族が殺され、その犯人を殺してやりたいと思ってもそれでもその場合の私はもうその時点で死刑制度の賛否を語るためのテーブルにつくことができないという風な分け方をしていた。

それで、今日は書いていたら外がばたばたして落ち着かなくて、こう読み返してもなんの話だったかよくわからない。板尾創路
「矛盾があってもいいんですよ」
と言っていたから、そういうのも今日の記事に影響した。矛盾を許さないというのは、一種の思考停止である。