意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

水にひたるように書く

春先にプールへ家族で行き、そこは少し標高が高く、また高くなくともまだまだ時期ではなかった。それでも平然と営業は行われ、ちょっと階段を上がれば防空壕みたいなところにサウナとかお風呂があって、サービス提供側は強気なのだ。私は十代のころから寒がりだから、こんな日にプールに入るなんて嫌だ嫌だ嫌だようという感じだったが、大人は子供の言うことを聞かなければならないから不便だった。子供がよく、
「大人の言うことをよく聞きましょう」
というのは、基本的に聞かなくても許されるからであり、聞いたほうがベターだからわざわざ注意するのである。大人は絶対服従だから、わざわざ子供の言うことを聞きましょう、なんて注意をされない。子供の言うことを聞かないと、独裁者のようになってしまう。

しぶしぶ水に浸かると確かに地獄ではあったが、だんだんと体が順応してきてむしろ空気よりも水のほうが温かいと思うようになった。濡れた皮膚が空気に触れると刺すように冷たいので、私たちはやがて肩まで浸かるようになった。中腰でプールの中を移動した。ドームのような屋根のある場所で一組の男女が隅で縦に並んでいた。男が後ろである。私たちは速やかにそこから離れ、流れるプールの流れに逆らってみたり、飽きてきたので途中で一度お風呂にも行き、お風呂に入ると眠くなった。防空壕のようなお風呂であった。そういえばさっきのドームも防空壕のようであった。たくさん空襲のあった地域なのかもしれない。それからまたプールに行くと地獄が始まり、しかしもうこの地獄から抜け出したくないと思うようになった。私たちは安易な天国に騙されてはいけない。

この感じがものを書く行為に似ていると思ったが、回り道が酷くて、あまり似なくなってしまった。とにかく私は書く前は「書きたくない」「書くことがない」と思ったりするが、書き出すと一行二行では済まないのである。散文というのは言い訳がましく書くのがいちばんなのである。

そういえば今日は月末であった。

私はとにかく書きたいことを書くのではなく、書けることのみ書くようにしているから、うまい具合に書き続けられるようだ。承認欲求とか、自己承認とかそういう難しいのは勘弁してほしい。難しいというか、手垢まみれというか。例えば「書きたいことを書きましょう」とさらりという人がいるが、私は今日までやってきて書きたいことを書くというのはとても骨の折れることだと思うようになった。書きたいことというのはすなわちゴールであることが多く、ゴールまでの道筋を考えなければならない。最短距離でいかなければ道に迷わないというのは嘘である。よくあてのないピクニックなら、
「じゃあここいらでお昼にしましょうか」
というのができるが、目的地というのはそういうことを許さない。空腹ならなお良し、という精神なのである。とにかく筋道をつけるというのは、神経を使って疲れる。たくさん辞書も引かなければならない。

プールにだのピクニックだの、やたらとパ行の活躍する記事であった。