以前から何度か触れたが私は夢の中で「これは夢である」と気づくことが多い。これを明晰夢と言う。しかしもしかしたらある程度夢が覚めてきた状態でそう気づいているのかもしれず、その場合は白昼夢ということになる。私はよく誰かが死ぬ夢だとか、テンションが下がる夢を見ると「そうじゃないパターン」を作ったりして、そのときは半分は覚醒している。そういう意味で私は自分の夢に常に第三者的視点を入れていて、自分が夢に没頭することはあまりない。私はあるとき自分の夢の話をいくつか友達にしたら、
「棚尾の夢は悩んでばっかりだな」
と言われた。これも話の分岐をどうするかについて迷うが故ととらえられる。昨晩の夢は私は夢の中で「再放送の夢」と名付けたが、以前にも見たことのある夢で、「見たことがある」と私は思った。こういうことは初めてだったので「極めて興味深い」とも思った。これを翌日のブログの記事にしよう、とも思った。私は毎日ブログを更新していて、そうすると毎日書くことを考えるのも面倒だから見る夢をあてにしている節があり、興味深い夢を見ると「ラッキー」と思う。しかし同時に「このストーリーを起きた後も覚えていられるだろうか」と不安になり、そして実際に起きたら忘れた。実はその夢を見て起きたときはまだ2時半とかで、その後再び寝たのだ。だから忘れるのは無理がなかった。私は2時とかすっとんきょうな時間に目が覚めると「ラッキーだな」と思う。あと何時間か寝られるなんて嬉しいな、と思う性分なのである。
しかし「これは夢である」と気づくと言っても、それは完全に覚醒後の世界とつながったわけではなく、変な思い込みを刷り込まれていることもあり、そういう意味ではこれも夢なのである。前段落でも「再放送の夢」を見たが本当にそうなのか、あるいはそう思、わ、さ、れ、た、だけなのか判断がつかない。私は以前は金縛りの夢を頻繁に見たが、それは明晰夢の一種であり、もう少し頑張ればやりたい放題の夢が見られますよとアドバイスを受け、そして実際にうまくいったときもあったが、それはどちらかと言えば金縛りの最中に夢想に耽っている状態であり、実際に体が動いているようなリアルさはなかった。夢の中で夢を見るような、ドラえもんでいうとのび太が寝ている吹き出しの中に、一回り小さいのび太が寝ている、という感じのイメージだった。少し前に「思い込みの世界」と書いたがこれは例えば私の母が死んだ夢を見たときに、どこかの時点で夢と気づいても、現実の母が生きているかどうかが本当に覚醒するまで判断がつかないのである。脳は私に何をやらせようと言うのか。