意味をあたえる

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インターネットは私のためにある2

インターネットで行く時間を宣言できれば、初めての場所を訪れる敷居が低くなると書いた。そういうのを昔「歯医者の予約みたいなものです」と例えた人がいた、というのを思い出した。言葉だけで、どんな人が、どんなシチュエーションで言ったかまでは思い出せなかった。やがて思い出した。牧原という、厚手のスーツの男だった。この男が、私の人生を変えた。別に牧原じゃなくとも変わっただろうが。つまり私の人生が変わるタイミングに、彼が立ち会ったのだ。牧原は、
プログラマーは儲かりますよ」
と言った。単なる営業文句だが、私は「そうなのか」と思った。私はプログラマーになりたかった。牧原はプログラマーのスクールの営業だった。私は社会人になって四年くらい経っていたが、そんな上辺の言葉すら見抜けなかった。それは私の経験不足とかそういうんじゃなくて、たぶんそういうタイミングというか、時期だったのだ。あるいは私がお人好しなのだ。だから牧原なんかに大金を巻き上げられたのだ。しかし牧原も被害者であり、結局はただの下っ端であり、儲かったのは社長とかだ。今はそのスクールはもうない。私が通っていたところは雑居ビルの四階にあった。その後の勤め先も四階になることが多く、本当は四階じゃない時期もあっただろうが、もうぜんぶがぜんぶ四階のような気がした。私は牧原と会って数年で三回くらい転職した。どこも合わなかった。社長が新年に自分の挨拶入りDVDを年賀状として送るというのがあって、しかし私は派遣社員だったので、送る対象にはならなかったのでラッキーだった。だけれども新年の抱負みたいな企画は全員書いて提出しなければならなかったので、私は資格をとるとか適当なことを書いた。隣の席の人にすごいですねと言われた。新年の抱負だなんて、まるで学校みたいだ。学校では三学期の目標、とか書いた。サインペンである。フェルトペン、とか呼んでいたかもしれない。縦長の紙で、ちょっとした書き初めみたいな風であった。それを教室の後ろに全員分貼るのである。私は字も下手だったし、そういうのは本当に気が滅入った。私はとにかく書くことに苦痛をおぼえる子供だった。思ったことや好きなことや、あとなんでもいいから書きなさいとかが苦手だった。私は計算のうまいやり方とかを考える方が好きだった。やり方なら、目的地が決まっているから、どんなルートでも到着すれば形になった。そういうのが気楽だった。あと自転車の弟と歩きの兄がどこで出会うとか、そういうのも線分図を書くとなんとなくできた。テスト用紙に式がたくさん並ぶと私は得意になった。プログラムも、そういうかんじだろうと思ったが、少しやったら嫌になってしまった。社長は栃木の人で、この会社がダメでも、俺はたぶん商売はやめないだろうと言っていた。