振り返ってみると、自分以外の個人から「わからない」と言われることの多い半生だった。言われてむかつくこともあれば「無理もない」と納得することもあった。わからない、というものにも様々なレベルがあるが、わざわざ宣言する、主張する「わからない」とはなんだろうか。つまるところそれは動物におけるマーキング、縄張り主張ではないかというところに行き着いた。わからない、というボーダーを引いて自己の輪郭をはっきりさせようという試みである。
私の昨日の記事で書いた人たちもその類の人たちであり、その人たちは自分の定義したがりなのである。その一方で私は他人の顔色をうかがう人生を歩んでおり、そういう自分を「その場しのぎ」と評価して自分を慰めようと試みた。少し前に会社の使えない後輩に、私が毎日報告する仕事を頼んだら、報告事項を手にメモして報告してきて、私としては特に感じることもなかったが(せいぜい「レトロだな」と思うくらい)別の仕事ができるほうの後輩が
「手にメモ取る人って、まず間違いなくしごとできないですよね」
と私に耳打ちした。私は苦笑いして済ませたが、頭の中では妻のことを考えていた。妻もよく手にメモをとる女だったからである。私は妻と仕事をしたことがないが、後輩の仮説は当たっていると思う。妻は普段使う手帳の他に、もう一つミニタイプの手帳を持っていてそれは仕事用だと言う。どういう風に使い分けているのか不明だが、だいたい毎日どちらかをなくし、私や子供たちにその在処を訊ねてくる。私は特に他人の持ち物に興味を示さない性格だから、知るわけない。子供たちの性格は知らないが、似たり寄ったりだ。そういう人が仕事のできる人には思えない。メモは手帳に取れば良いし、なんならメモ帳を持ち歩いても良いのではないか。私はメモはとらない性分なので、メモ帳を持ち歩いたりはしないが。とにかく手にメモをとる人は仕事できない、について異論はないが、だからと言って私は少しもいい気はしない。やはり、この仕事ができるほうの後輩も「浅はかだ」と思わざるを得ない。とにかく私はこのような浅はかな人間が理解できない。例えば集団内で「○○でない人ダメなんです」と臆面なく表明する人は、どうしてその中に○○でない人がいるリスクを考慮しないのか。この記事は「わからないで済まさない縛り」で書いているから結論を出すが、押しつけなのだろう。あるいは同調から自分が変化することを恐れているのかもしれない。これは「自分らしさ」を強調したがための弊害なのではないか。