ララランドというヒットした映画を少し前に見てヒットしたので見た人も多く自然と感想だとか解釈だとかの文章を多く目にした。今までの映画なら感想が多いのかもしれないが最近の映画は解釈と読んだほうが相応しい文章をよく見る。それが21世紀なのか。そういえば私は普段はあまり話題にならないような小説だのを読んでいて映画も数年に一度しか見に行かない。だから自分の見たものにかんしてこんなにもたくさんの解釈があって戸惑った。まるで学校にでも通っているようだった。学校でみんなで映画を見て感想を言い合うというのに似ていた。中学のころ英語の学習の一環で「バードオンワイヤー」という映画を字幕なしで見てそのとき生徒にネイティブな発音を身につけさせるために赴任した外国の男の教師がいたのだがその男はアメリカ人らしく生徒たちのど真ん中の机の上に腰掛けた。そういう外国の教師をアルファベット三文字で現すのだが私はいつも忘れてELTとか言ったら「それはイーエルティーだよ」とつっこまれた。
「バードオンワイヤー」を見ていたらちょっとエッチなシーンがあってするとアメリカ人の教師は「NO!」と言いながら画面を手で隠した。ビックリマークを付けてしまったが大真面目に「見るな!」と叱ったわけではなくソフトに「参ったね」というかんじの「NO」であった。いくらアメリカ人の手が大きいといっても画面のぜんぶは隠れないしあらゆる角度から生徒たちは画面に食い入るからどの道隠すことなんてできなかったのである。アメリカ人からしたら中学生くらいならちょっとした性行為くらいじゃ動揺しないしもしかしたらすでに済ませてしまった人だっているのかもしれないと考えたのかもしれない。私のクラスではワタベとササキが土手でやったという噂が流れていた。私の中学は川べりにあって土手があったのである。運動部に入ると「土手○周」と先輩に命じられてわっせわっせと走らなければならなかった。土手は一周800メートルほどだと聞いた。私はテニス部だからだいたいいつも三周走らされ先輩や顧問の機嫌が悪いと5周とかになった。サッカー部や陸上部はもっと走ったのだろう。とにかく土手は糞食らえでそんなところの影で性行為におよぶなんてワタベとササキはちょっとイカレてると思った。ワタベは野球部でササキはバスケ部だった。ワタベは馬鹿でサルだからどこでもいいのかもしれないがササキからしたらちょっとどころでなくイヤな話だ。ササキは女子では背の高いほうで気が強くグラマラスな体型をしていた。学年の途中で髪を短くした。中学を卒業してから一度もあっていないが今はその人を「お母さん」と呼ぶ人もいるのかもしれずそう考えると奇妙な気分だ。ササキもララランドを見て自分なりの解釈を持つのだろうか。ササキはどちらかといえば頭が悪いから「どうして話の途中で歌い出すんだ」と憤慨するのかもしれない。それは心象風景だから歌っても踊ってもなんら不思議はないが私は最近は物事をフィクション化するにあたり絶対に抜け落ちるゾーンというのが物語には存在しそれを埋め合わすためには歌ったり踊ったりしなければならないと考えるようになった。よく考えたらミュージカルはおかしなものだが何年か前に「コーラスライン」を見たらやっぱり出演者の人は必死であった。
私は解釈というほどのものを持たず心に残ったのはセブとミアがケンカをしたシーンでセブが聞くからに情けないことを吐いてミアの逆鱗にふれるというのがあってその情けない言葉に「男ってこうなんだよなあ」と心の中でつぶやいたことである。共感したのである。どうして「どうせ俺なんて」と自分を卑下するのは気持ちがいいんだろう。愛されることは幸せだが愛されないことのほうがずっと楽なのだ。「嫌いになった」と言われるより「そもそも好きでなかった」と言われたい。私とセブは自分の中の何が傷つかないように何を守ろうとしているのか。私とセブは個人的な知り合いでも何でもないが私とセブ以外は女との関係がうまくいかなくなったときに「そもそも愛してなんかなかったでしょ?」なんて言わないのかもしれない。
セブセブというとフィリピンのセブ島のことを思い出し課長島耕作で樫村が現地のゲリラに殺されたのかあるいは島がフィリピンのマンションで隣の部屋の男が不倫をしていたら亭主に見つかって指の先を撃ち抜かれたのがたしかセブ島だったのではないか。