意味をあたえる

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ハーブが目にしみる

昨日の記事更新時のTwitterにも書いたが、私の花粉症が始まった。しかし、何をもって始まったと感じたのか、今日になったら忘れてしまった。私のものをかんがえるちからは、それほどまでに低下していた。先週末から喉が痛くて、「痛いなー」と思っていたら今朝になって痛みがひどくなり家人に「仕事帰りに病院寄るかも。寄らないだろうけど」と伝えた。しかし明日は木曜だから、私は寄るかもしれない。木曜は病院は休みのところが多く、私の体調が木曜にさらに悪化したら馬鹿みたいだからである。しかし明日は祝日だから、木曜とか関係なく休みだった。

それで、今日一日仕事をしてみたら、くしゃみと鼻水が止まらなくて、もう喉の痛みにまで気を配る余裕はなかった。気を紛らわすために、朝にコンビニでかったロッテののど飴をなめていたら、いよいよ目もしばしばしてきて、「いよいよ花粉症だ、これは目医者に行かなくては」と思った。私は耳鼻科なんかより、目医者に行きたかった。目医者のほうがたくさん薬をくれるからである。耳鼻科は、薬をけちる上に、窓際にある変な鼻にあてる器具を私たちにあてさせ、それで私たちの人生を10分だか15分静止させる。私はそういうことされると、「無駄なことされたな」と思う。もちろん、それ以降たとえば1ヶ月鼻水がとまるとかなら、いいよ? だけどそんなのそのときだけの効果で、駐車場で他の車が巻き上げたほこりとか吸い込んだらもうそれでおじゃんじゃん? 私は鼻に入れる赤とか青のチューブが許せない。年配の看護師のお手製の割烹着が許せない。 

だから今年も目医者に行こうと思っていたら、私はある法則に気づき、その法則とは目がしばしばするのは飴をなめているときだけだった。つまり私の目はロッテののど飴のハーブが目にしみていただけの話で、なめなかったら目医者の出番はなかった。のど飴のハーブが目にしみるなんて生まれて初めてだったから、私はとても動揺した。

それで「煙が目にしみる」という曲のことを思い出した。それはジャズのスタンダードの曲だが、私はセロニアス・モンクというピアニストが演奏するCDを持っていて、その曲の、サビじゃない、「たららーん、たら、らたららーん」となるぶぶんがあるんだけど、そこを聴くと、昔一度だけ訪れた、土手の上の公園のことを思い出してしまう。その公園というのは、私が幼い頃に遊んだところではなく、私たちが二十歳そこそこのころに、夜中に友人のホンダストリームの三列目までぎゅうぎゅうに乗ってでたらめに走り、そうしたら土手があってその上に公園があったので、私たちは降りてそこで話をした。土手の上なので長細い公園で、砂場とか滑り台が遠くにあったので、私たちは誰ひとりそこでは遊ばなかった。あまり長い時間いなかった。私は再びそこへ行きたいと思うが、でたらめに走ってついた場所なので、見当もつかなかった。