意味をあたえる

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青年海外協力隊家庭科室ドブ川横沢(2)

ところで青年海外協力隊と書いて、ぴんと来るものがあり、それはかつてテレビドラマの中で同じ単語を聞いたことがあった。それは「天まで届け」というお昼の帯ドラマで、私が小学6年のころに放送されていたが、私はそのときは夏休み中だったので、そのドラマを観ることができた。しかし、最終回の週の前に夏休みは終わってしまい、私はたくさんの宿題を下げて学校へ行き、すると始業式の日はすぐ帰れたので、観ることができた。次の日に給食が始まると観ることはできなくなったが、運良く私の班はそのときは家庭科室の掃除当番であり、家庭科室には窓際にテレビが設置されていたので、「天まで届け」を観ることができたのである。すると、私は大喜びしてテレビにかじりついたわけだが、他の班の人もほうきを持ったまま同じようにテレビの方に駆け寄ってきたので、私は私以外の人たちも天まで届けを観ていたんだなあ、と驚いた。ほうきは各教室にあるのよりも柄が長かったので、生徒の中には柄の先に頭を乗せながら観ている人もいた。
そうなると私はがぜん嬉しくなったので、もっと家でみているような気分にみんなをさせてやろうと思い、後ろ側の棚には箱がしまってあるのだが、その中には塩ビで作られたピーマンやトマトやバナナ、それからトーストやカレーライスと言った食事の模型があった。それは家庭科の授業で理想的な朝食とか、そういうテーマで使うものなのかもしれないが、そういう授業は昔に行われていたようで、私たちは授業でそんなものを使ったことはない。親から
「あくまで学校教育なのだから、家庭科といえど、おもちゃで授業を行うのはよろしくない」
と苦情が入ったのかもしれない。つまり、私たちからしたらどうみてもそれはママゴト道具であり、私は内心
(やはり学生とは言っても小学生はまだまだ子供の部分が大きいから、こうしてたまにはオモチャを使って幼心を慰めるのかもしれないな)
と予想をした。ちょうど校庭の片隅には滑り台やブランコが設置してあるのと同じように。
とにかく私はオモチャの野菜や料理を取り出して皿に並べ、みんなの気分を盛り上げようと思ったのである。

このエピソードのどこが、青年海外協力隊と関係しているのか、と読んでいる方の中には、疑問を持った人もいるかもしれない。「天まで届け」を見たことがない人のために捕捉するとこのドラマは、とある家族を主人公とした物語である。夫婦がいて、子供が13人いるのだが(13人目は劇中でうまれる)、その長女はまち子(演:若林志穂)という名前だった。まち子は高校生であったが、担任教師の別所哲也と恋人関係となり、やがて卒業して結婚するのである。別所哲也は結婚すると同時に青年海外協力隊の一員となって、ザイールへいくのであるが、しばらくして川へ落ちた子供を助けようとして溺れ死んでしまうのである。だから下条がザイールへ行ったと聞いたときには、私は下条もやがて死んでしまうと思っていたが、下条は私が3年になると帰ってきて
太田ひさしぶりだな。少し太ったか?」
と言ってきた。私はそのころはもう下条のことなど忘れていて、これは私の悪い癖だが、私は自分がそうなら相手もそうだと、自己中心的に考えることがあり、つまり私は私の名前をしっかり覚えていた下条にびっくりした。そして私は3年生になって部活も引退し、たいして熱心にやりもしなかったのに、一気に5キロくらい太っていた。

話を「天までとどけ」に戻すが、とにかくまち子は夫と死別をするが、私たちが家庭科室で観ていたときは、そんな暗いシーンではなかった。きちんと調べる気がないので断言はできないが、別所が死ぬのは「天までとどけ2」だったかもしれない。そのシーンではザイールから
「別所が死んだ」
と報せが届き、それじゃあと綿引勝彦岡江久美子若林志穂がザイールまで遺体を引き取りに行く、となった。綿引が父で岡江が母である。すると若林は台所のテーブルの脚にしがみつき、
「行きたくない」
とわめいた。椅子の脚だったかもしれない。若林の脚のほうは黒いストッキングで覆われていた。そして、無理に引き剥がしたのか、諭したのかは忘れたが、それを見たときに私はあることを思い出した。
私の祖父は交通事故で死んだのだが、それは私が小学6年のときの話だった。病院に運ばれて3日ほど経ってから死んだ。死んだのは午後8時過ぎで、私は妹とテレビ番組を見ていたら電話がかかってきた。祖父が死んだので父の実家にくるように、と言われた。父はそのとき病院にいた。祖父とは、父の父のことである。私はそのときに父が病院にいることを、知らなかった。四十九日も終わってしばらく経った冬のある日、父が靴下を履いて布団へ入ったので、私がそれを指摘すると、
「もう親の死に目に会えたんだからいいんだよ」
と言った。父は少し酔っていたのかもしれない。父が寝るのは23時とか24時だから、お酒を飲んでいても不思議のない時間だった。そのときに私は父が祖父が死んだときには、病院にいたんだと知ったのだ。あるいは単に忘れていただけなのかもしれないが。

とにかく祖父が死に、本家で葬式が行われたが、出棺の際に祖母は祖父の棺桶にしがみついて大声で泣いた。私はそれまで大人が泣くところ、取り乱すところを見たことがなく、しかも1番身近な父親や母親でなく、祖母だったので尚更驚いた。私たちは祖父母とは別々に暮らしていたからだ。
私は、この取り乱す老婆について、事故でなんの心の準備もできないまま死別したらそうなるのも無理はないな、と冷静に解釈した。しかし私はそのときまだ小学生で、しかも生まれたときから祖母は祖母だったので、老婆だと思っていたが、今思い返すと、まだ50代だったのかもしれない。祖父は65よりも前に死んだから。祖母はそのあとしばらくしてから死んで、それは癌であったが、そのときはやっぱり80に届いていなくて私はびっくりしたのだ。
私は実のところ祖父の死に、それほど動揺していなかった。それどころか病気でもないのに堂々と学校を休めることに、心を踊らせてすらいた。私は子供のときは病気がちな子供であったから尚更であった。葬儀は祭に似ているところがある。私の家から祖父母の家までは歩いて10分くらいの距離にあり、8時過ぎに連絡を受けてから、普段なら車で行くところだが、親戚が大勢くるからと、私たちは歩いて行った。夜道を歩くというのが祭に似ている。歩いている記憶は、今の私には全く残っていないが、暗い中歩くのに、私はわくわくしたに違いない。途中には工務店があって、道の向かいは雑木林になっているが、工務店の主人がたまに立ちションをしている姿を、私は時折学校帰りに見かけた。主人はそんなときでも
「おかえり」
と大声でかけてくれた。私はしかしここの家の子供ではなく、ここの家の子供はすでに男の子が3人もおり、やはり工務店の社長の子であるから家は大きくて各人の部屋があり、リビングには壁に沿ってL字型に曲がっている水槽が設置され、見たことのない熱帯魚が泳いでいた。私はここの家の三男と仲良くして、たまに家に上がり込んで熱帯魚を眺めたりしたが、やはりそこは私の家ではないので、「おかえり」と言われたときに「ただいま」と返すべきか迷ってしまい、いつも気まずくなってしまう。工務店の社長は、私のことをおとなしい子だと思っていた。私の家はそこから50mほど歩いたところにあって、その工務店の資材置き場とその裏の家の庭を突っ切れば、近道で私の家のすぐ前まで出られるが、小学校高学年になってからは、あまりそういうことはしなくなった。それは私が自意識に目覚めたというのもあるが、さらに先に進んだところに住んでいる幼馴染が引っ越して行ってしまったことが、理由として大きかった。私が庭を突っ切るときは、いつも横沢と一緒だったからだ。横沢は埼玉トヨタの2階に住んでいた。しかし彼の父親はトヨタ社員というわけではなかった。私は横沢の家には上がったことがなかった。それは横沢の家が4人兄弟で横沢が末っ子であり、横沢の話では家がとても狭いからあがれないからという話だった。私の家と、横沢の家までは砂利道であったが、その道の脇にはかなり広いドブ川が流れていた。かなり広い、というのは当時私の体が小さかったからそう見えただけなのかもしれない。家の前の砂利道は、私が高校生のときに舗装され、ドブ川も同時に埋められた。だから大人の目から見たときのドブ川のスケールは、もう確かめようがなかった。しかし、読者の中には高校生であれば大人とほぼ同じ体格だから、そのときの感覚を描写すればいいのではないか、と指摘する人もいるかもしれない。確かにその当時の私はテニス部を辞め、辞めた途端に太り始めそれを下条に指摘されたので、体格は良かった。ドブ川を正確に描写できないのは、その頃はもうその道へは近づきもしなかったからである。
横沢の家(埼玉トヨタ)の裏から進んだところに私の家はあるが、つまり私の家からは埼玉トヨタに向かって進んでいく形になるわけだが、ちょうど建物に差し掛かる前に、ドブ川にかかった橋があり、橋、といっても分厚い細長の板を2枚横に並べてかけただけの簡素な橋であり、当然手すりなどもなかった。板も元は内角の和が360°になるような長方形だったのだろうが、いろんな人が靴底を擦り付けたおかげで角は丸くなってささくれがギザギザし、表面も黒ずんででこぼこしていた。幼いころの私からしたら、大変な恐怖であったが、小学生の高学年にもなれば、いくらドブ川が広いといっても限度はあるので、それほど恐怖は感じないが、しかしそれでも進んで渡りたいという気持ちは起きなかった。
それはその橋の向こうが被差別部落だったからである。橋の向こうについては畑が広がっていて、橋から続く道については、舗装はもちろん、砂利すらも敷かれていなかった。道の両サイドには雑草やススキが生えていて、草の向こうは錆びた金網が張られていた。雨が降ると道はぬかるんだ。
しかし、私がその一帯が被差別部落であると聞いたのは大人になってからであり、私の住んでいる地域では同和教育は盛んであったから大人たちも簡単には
「ドブの向こうの子とは遊ぶなよ」
とは言えなかったのである。だから私は横沢も差別される側の人間であることはずっと知らなかった。横沢は小学5年の頃に引っ越して行ったが、遠くへ行ったわけではなく、同じ町内にある、おばあちゃんちにおばあちゃんと一緒に住むということになったので、転校もしなかった。もちろん近所ではないが自転車で30分くらいの距離だったので、毎日ではなくても、遊ぶことは可能だった。実際私はもっと遠くの子の家まで遊びに行ったこともあり、そのときはもちろんひとりではなかったが、暗くなるまで遊び、そうしたらそこの家のお父さんは警察官で、やはり警察官という立場もあるので、
「いい加減帰れ」
と大声で怒鳴られた。私たちは素早く身支度をして、帰ったが、帰り道では笑っていた。
だから横沢と遊ぶことも可能で、横沢の親の仕事は知らないが警察官ではないから、多少遅くなっても構わないのだ。
しかし私が横沢の引っ越し以降、横沢と遊ぶことは1度もなかった。もしかしたら私の記憶が間違っている可能性もあるが、先ほど柴田工務店の資材置き場と弘田さんの庭を突っ切って近道をするエピソードを書いたが、私は横沢がいなくなってからは、1度もその近道を利用していないのだ。いや、そのことは私の記憶の裏付けには全くならないが、私は横沢にそこをひとりで通っていいか、許可を得ようと思っていたのである。元はと言えば、その近道を開拓したのは横沢であり、かなり幼い頃には横沢に
「俺の許可なしに、勝手に通らないように」
と言われたこともあったのだ。横沢の「俺」は「お」の方にアクセントを置く独特の言い方であり、さらに横沢の声は高く、今でも横沢の「俺」は私の記憶に刻み込まれている。とにかく私は小学5年以降横沢とは遊んでいない。
近道通行の許可は、学校で行うことも可能だったが、あいにく私たちは別のクラスだった。小学校時代は特にそうだが、私たちは同じクラスの子が第一優先であり、同じクラスの子とばかり遊んでしまうのである。しかも横沢のいる2組には4年のときに私をいじめていた連中もいたので、気軽に2組の教室に入るなんてことはできなかった。さらに2組の担任はいつも緑色のカーディガンを羽織った年増の女であり、この女の自慢は2人目の子供を産む際に、帝王切開を麻酔なしで行ったことであった。肉にめり込んで行くメスの感覚は、
「痛いよりも熱いという感じだった」
と私たちに語って聞かせたことがあった。私は今のところ、今現在も含めて、熱いほど痛い思いはしたことはなかった。

〈了〉