意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

お笑いの緊張感

この前シソンヌというコンビのお笑いが面白いのでぜひ見てくださいというから舞台の動画を見た。それは長めのコントだが劇中の時間の流れも年単位に渡っているので見ていて疲れてしまった。出演者の演技もうまいしセリフも間違えないのでそういうぶぶんも疲れてしまった。緊張感というか。しかしその舞台というのはシソンヌが好きでシソンヌらしさを味わいたくて人が集う場所なので、私などお呼びでないのだ。正直「もっとゆるくやりましょうよ」と声をかけたくなったが、そんなことはシソンヌ好きが人は求めていないのだ。その証拠として私は有吉の壁という番組を家族がよく録画して見ているから特に見たくもないのに見てしまうが、見たくもないというのはつまりあの番組は司会者の有吉さんと佐藤栞里さんをどうにか楽しませようという趣旨で、視聴者が置いてきぼりにされてしまうのである。しかしそれに抗うグループもいてシソンヌはそちらに入る。見分け方としては有吉さんが○か×の判定をした後に演技をやめて有吉さんに言い訳を行うグループは視聴者のことなど眼中にないのである。しかしシソンヌもいつもは判定後もしっかり最後まで演技を続けようとするがそういえばこの前は有吉さんに言い訳していた気もする。その辺は芸能界の厳しさなのだろう。例えとしてフライを捕ったプロ野球選手が捕球後にいちいち監督を見ますか? というのを思いついたがもしかしたらそういう人もいるのかもしれない。


ここまで書いてだいぶ時間が経ったので読み返したらシソンヌのことを書いてなくて、つまり有吉の壁はシソンヌのファンでない人も見るからもっと抑え目なのですよ、ということだった。


それでその動画を見た直後にじゃあ私のおすすめはこれですよと保坂和志山下澄人が喋っている動画を再生したら、むしろ普段の私たちのお喋りよりもずっといい加減で私はシソンヌのときよりもずっと気楽だった。何せ「これはこの前話しそびれちゃったんだけど、、、」なんて言い始めながら直後に違う話に飛ぶからやっぱり話しそびれるのである。「えっと」とかが多くて脈絡がない。何かを準備してやり切るという発想が端からないのである。そこに私は改めて気楽さをかんじた。何しろ私たちのアウトプットは欲望と直結しすぎている、ということだろうか。