意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

誰に向けて書いているのか

昨日の記事を書きながら私は私が大人になったようなことを書きながら心の内ではそうは言ってもまだまだ傲慢だとか思っていた。私をよく知る人が記事を読んだら「調子のいいことを述べているな。あなたはあなたが思う以上に自分本位ですよ」と思うかもしれない。しかしそういう人に対して私は記事のURLを教えていないからそれは取り越し苦労だった。今までに対面で私のブログのことを紹介したことはあったが、それらの人は最初の数ページをクリックしてあとは読んでいない。だから私が書いている内容と書いている私本人の再現度というか乖離というかシンクロ率というかそんなことを気にしても意味がないのである。


自分の虚栄心とか他人に良く思われたいという気持ちに苛まれる今日この頃だが、しかし私はこうして文字を綴っているときは比較的石ころのような心持ちになっていることに書きながら気づいた。当然毎日100万人くらいには読んで欲しいがとりあえず100人のリピーターを確保するためにはみたいな取り組みもしていない。私は私の書きたいようにしか書けない。それはプライドのようなものではなく、単にそうだからそうだという話である。もっと○○のように書くことも可能だがそれは結局は文章から私を遠ざける。ただしふざけて書く場合は違っていて、私は仕事でも文章を書くがいちばん多いのは謝罪の文章で、私は書いていて時折笑い出しそうになる。私は比較的正直な人間だが、それでも謝罪のメールはふざけてしまうことが多い。「心苦しく思います」と書きながらあくびをしているのである。当然そのような態度は相手にもじゅうぶん伝わっており大きなトラブルにならないのはお金がもらえるがらである。