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描写

円城塔が『コード・ブッダ』で会得した危険な技術と描写の消滅について|畠山丑雄

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描写が書くのも読むのもかったるいとあったが確かにその通りだと思った。昔の欧州の小説を読むときや、また章が変わったときにひんぱんに出てきて読む気が萎えるのである。一昔前のバラエティ番組(アンビリーバボーとか)のCM明けにCMに入る前の部分があらすじ的に入るのに似ていると思ったらあんまし似てなかった。似ているのは(かったるいなー)と思うことだけだった。あのやたらと手前から再放送する手法はいかにも視聴者をバカにしているみたいで、どうせ続きが気になって視聴を中断できないでしょ? と言われているみたいでいつも暗い気持ちになっていた。


今小説から描写が消えつつあるとあって今の小説に興味が出てきた。しかし読みやすい小説がつまらないのも事実である。「一気に読めた」というのがほめ言葉になっているが裏を返せば何の起伏もなかったということである。ストーリーには起伏があったのかもしれないがそれは「一気に読める」小説の条件のひとつにすぎない。本屋の本の帯に「思わぬ結末」と書いてあるがつまり私たちは「何かが予想を裏切る」「タイミングは最後」と教えられているのである。本当に起伏に富んだ小説はむしろストーリーが破綻していたりする。しかし起伏に富んだ小説は読むのが疲れるのも事実なので敬遠されるのも事実である。なんとなく私は山の中を走る自転車を想起したが小説も愛好家だけが読むのが自然だと思うが自転車も初級者用があって舗装された道を走るのがあるでしょとも思って考えるのが面倒になったのでやめる。


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すずめの戸締まりという映画を見た。ずっと前に私の子供から「面白いから観た方がいい」と勧められていたがたまたま家のテレビのアマゾンプライムに出てきたから「見たい」と言ったら再生してくれた。子供はドラえもんを見たがっていたがすずめの戸締まりならもう一度見てもいいと思ったのであろう。まだ見てないの? と言っていたので気の毒に思ったのであろう。すずめの戸締まりはあまり説教くさくなくて良かった。先の引用の記事に描写はストーリーに説得力を持たせるためにある、とあったが自然物や構造物がきちんと描かれているので気恥ずかしくなることがあまりなかった。私は幼い子どもが無邪気だったり友達がテンポよく突っ込みを入れたりお母さんが理解あったりすると恥ずかしくなってしまうのである。そこに大ミミズは人間の愚かさの象徴とか来てしまうといよいよシラケるがミミズはミミズで蝶々は蝶々なので良かった。本当は蝶々も「これはすずめの○○を表していて最初と最後で羽の模様が違っているのは恋をしたからなんです」とかあるのかもしれないがそういのはたくさんだった。そういう意味で男主人公が早い場面で椅子になったのも良かった。欠けたイスの脚が最後まで出てこないのも良かった。見終わってから子供に感想を求められたので「大きな株みたいで良かった」と言ったらそれ以上何もきかれなかった。