意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

現実

久しぶりに2日続けての休みがありさらに映画だの小説だのをやっていたから頭の中がすっかり「ララランド」になってしまった。サントラを買い車の中でそれを流し現実に帰るのが億劫だった。タイヤが道路をこする音でピアノやヴァイブがかき消されほとんど聞こえない。だけれどもとちゅうのポップソングみたいなのは笑っちゃうよね。ふざけている。しかしとちゅうの「ザ・ジャズ」みたいなのよりはまだマシだった。悪くはないが聞いていてだまされたような気になる。「瀕死のジャズ」と話の中に出てくるがこういう曲が追い込んでいるのではないか。私のドラムの先生にかつて私のCDを何枚か貸したときはたいてい「今どき暗い顔してバップやってる連中よりはいいよね」と言っていた。つまりなんだってそうだがとどまる者のところには死しか訪れない。「ザ・ジャズ」は聞いていて苛立ちをおぼえる。


「ララランド」を漫画にしたら最高じゃないかと思った。書くのは私である。私は漫画も書けるのである。好きなシーンはアレンジしてそうでないところは端折るのだ。パーティーのシーンは人がたくさんだから書き応えがありそうだ。楽器もたくさんかけねばならない。男と女はまあなんだっていいだろう。愛着がわけばなんでもいい。それを毎晩机に向かってちびちび書くのだ。完成したら友達に見せる。その友達が死んだらネットにあげてもいいだろう。私は遠い未来の話をしている。私は誰よりも長生きすると思っている。

保坂和志「地鳴き、小鳥みたいな」

昨日に買った。少し前までしばらくは小説はいいやと思っていたからどちらかといえば同時に発売された「試行錯誤に漂う」を買いたいと思っていたが近くの本屋に売ってなかった。近くの本屋というととても小さなものを思い浮かべるかもしれないがそれなりに大きかった。小さな本屋なんてもうどこにもなかった。例外として中学の通学路のとちゅうに一階建てのドライブスルーみたいな本屋があるがこれは本屋というよりもエロDVD屋だった。エロで世間の荒波を乗り越え続けているのである。私はそこでエロもそうでないのも買った。十代後半から行っている。昔はエロの面積はもっと狭かったが最後のほうは半分くらいがエロゾーンになっていてご丁寧にレジも分けられるようになった。今はエロ八割くらいではないか。どちらにせよ時代遅れの話だ。今は本屋ごとのエロ本のカラーなどは気にせずに済む。


少し前に買った「三田文学」で保坂和志特集が組まれていてそこに佐々木敦の文章を読んでいたらそれまで普通に大谷みたいな名前で書かれていた人が急にOみたいなアルファベット表記がされるようになってみたいなのを読んで無性に読みたくなった。同じことが小島信夫「残光」でもあってあの中では山崎さんが章替わりでYさんになった。それってなんの酔狂ですかという感じだが書いているほうはもっと切実なのだ。確かに山崎とYじゃニュアンスも変わってきますよねと私は言うが私だって理解しているわけではない。だけど私はこういう融通の良さが好きだ。昨日見た「ララランド」でラストの妄想が妄想でなければどんなに良かったかと書いたがそれは私の純情なぶぶんがそう思わせるのだが「良かったか」というのは本音である。つまり「妄想でなかったらうれしいけれどそうすると物語が破綻する」ということではなく「妄想でないほうがずっとエキサイティングだ」というニュアンスである。映画は家を建てているわけではないから二階に行くはずの階段が三階にしか通じてなくとも問題はないはずだ。問題なのは受け取る側の融通のなさであり作る側の顔色の見過ぎである。


三田文学」には保坂和志の小説が二編おさめられており私はそれを頭からではなく適当に開いたページを飽きるまで読み飽きたらまた違うところを読むという読み方をしたら面白くて結局最後まで読んだ。だから今回の「地鳴き、小鳥みたいな」もそうやって読もうと思い実際これは短編集だから開いたページが別の小説ということもあるが問題はなかった。どんな読み方をしても今同時に読んでいるベケットの「事の次第」よりも意味はとれた。「事の次第」はちょっと意味が分からない。泥の中に男が二人埋まって過去だ現在だとこだわる話である。ピムだボムだ出てきてどっちが語っているのかあるいは両方なのかも判別できない。何行か置きに段落が変わって一行空くのが救いだ。そう考えるといわゆるブログに似ている。それでもこの前の「短歌の目」で短歌をやったときにこの小説を真似たら思いのほか面白くてわくわくした。ベケットと短歌は相性が良い。

ララランド 感想

ミュージカル好きの私を維持するため映画「ララランド」を観てきた。映画館まで行った。9時25分の回である。遠目のショッピングモールまで行きとちゅうで間に合わなそうになったので諦めようかと思った。時間に追われるなんてほんとうに馬鹿らしい。ナビの時間は上映開始の五分前到着予定だったが広い駐車場を歩けばすぐにそんな時間は消し飛ぶので私は遅刻するものと決めつけていた。しかし間に合った。しかしどちらにせよ長い予告があるから間に合わなくても同じだった。そうだろうと思っていた。そう思いつつ諦めてしまうのも愉快だと思った。映画館は何年かぶりで前回は「HUNTER×HUNTER」だったか「生きねば」を見た。どちらが最後だったかは忘れた。「生きねば」は何かに登録キャンペーンで無料で見た。登録は見終わった後すぐに解除した。そういうのは好きではないが会社の人が「お得だから」というから従った。とにかく急いだり焦ったりするのが苦手なのだ。


ララランドはヴァイブ好きの目さんが誉めていたので楽しみだった。出だしは良かった。渋滞中の車から運転手や乗り手が降りだして自分の車の上でがんがん踊り出すシーンには狂気をかんじた。あれだけボンネットや屋根の上でステップを踏んでへこんだりしないのだからアメリカの車はとても丈夫だ。その次のパーティーに行く? 行かない? のどうでもよいことでいちいち踊り出すのも楽しかった。部屋着のエマストーンのズボンのウェストの紐がちょろりんとうどんみたくなっているのがたまらなかった。パーティーは結局行くのである。


しかしその後は総じて退屈だった。私は愛だの夢だのはあまり興味がなかった。もっと歌って踊ってほしかった。もうひとりふたりボーカルがいたら良かった。特に低いキーの見るからに悪い人とか出てきたら楽しいのにと思った。「ジーザスクライストスーパースター」だとカヤパが低い。アンナスは気の抜けたような歌い方でユダに金を握らせる。


ラストの妄想シーンはハラハラしたが妄想じゃなければどれだけいいかと思った。話の設定が「マルホランドドライブ」に似ているから私は見ながらマルホランドドライブのことを考えた。妄想シーンはちょっと手をくわえれば「インランドエンパイア」の顔の長い女が道に迷って出られない変な小さな部屋に閉じ込められるシーンぽくなると思った。あの映画もとちゅうで誰と誰が夫婦だかわからなくなるし踊りのシーンもある。しかし踊りは楽しいほうがいい。


夢や愛についてぶつかり合う男女にスマホは似つかわしくないと思った。「夢=成功」という価値観は古い。成功不成功のあいだを隔てるボーダーはそこまで確固としたものなのだろうか。

古い写真

古いと言っても7、8年前だが今の会社に入った頃に撮られた写真が出てきて今よりもかなり髪がもっさりしていて驚いた。髪だけでなく眉毛も太い。垢抜けてないの逆が出てこないからその場しのぎで代用するがまさに垢まみれである。どうしてこんなにもっさりしていたのか謎だ。パーマ屋が悪いのか。当時通っていたパーマ屋の担当美容師は自信をもって「あなたのような頭の形だと絶対に耳は出さない方が良い」と言われ続け私もそれに従っていた。つまり耳はしまったままだった。今は100パーセントの露出である。今の美容師に以前耳は出すなと言われたことを話すと「そうですかね」と不思議がっていた。流行だろうか。確かに当時撮った直後はなんとも思わなかった。同時期に撮られた上司のネクタイが曲がっていてそれを指摘したら露骨に無視された。もともと返事が遅い方の上司だったからそのときも待っていればそのうちなにか反応するかと思ったらそのままで私は気まずい思いをした。今は慣れたので特に思うこともなくなった。だいいちもう上司ですらなくなっていた。それから数年後に一度その写真を見ることがありそのときも「もっさ」と思った。もっさりしているからである。そして今日再び同じ感情を抱きこうして何度見ても初めて見たかのような新鮮さを抱けることに感動すら覚えた。かつてこんなにダサい時代があったというのも感慨深い。この頃はたしかTwitterにハマっていてオフ会だのにも出たのだ。こんなにもっさりしているのに。そこでメガネをかけた人に「こんなに自分自身をおとしめるような話し方をする人も珍しい」と評価された。そのような視点も新鮮で私はその人と何度か会った。最後に会ったときには急に白髪が増えて毛の本数も減ったからヤバそうだった。話すと普通だったがそれがその人に会った最後だった。


オフ会も多人数のときはつまらなかったし少人数も当たりハズレがあってもう何年も参加していない。他人を踏み台にして場の空気を支配しようとする人はどこにでもいて昔からの友達ならまだいいが(それでも陰口は言う)初対面の人なら容赦なく嫌いになった。たいていの人は私の知らない話ばかりしてそういえば私は根っからのインターネットっ子ではないから話についていけないのは当然だった。こういう話を自意識抜きに語るのは難しいが私は昔から疎外されることが多くそれが私のキャラと自負しているぶぶんもあった。中学二年のときにクラスの中心的な人がクラス内を派閥に分けるという今で言うスクールカースト的なことをやったが私は最後まで無所属だった。私は決して一匹狼を気取っていたわけではなかったが人間関係に執着しないというかとにかく人から言われたことはよく聞いた。その物わかりの良さが人からすると気持ち悪いと写ったのかもしれない。私もたまに「どうしてこんなに人の言うことを聞いてしまうのだろう」と思うことがある。今でもそうでこんなに律儀に会社の言うことをきいて馬鹿みたいだと思う。もっと反抗すればいいのにとかあるいは顔では「はい」と言って後から文句を言えばいいのにとか思うが私は私なりにいつも納得してしまう。しかし最近はいないところでよく文句を言うようになった。

悪口

自部署のパソコンの数が少ないのでたまに隣室の営業所に行って仕事をする。こっちは暖房がよくきいていて居心地が良い。私の事務所はエアコンがついていても寒いことが多いので私はよく「寒い」と言う。いつも風量は「弱」になっているから誰もいないときに「急」にしてみたが変わらなかった。詐欺ではないかと思う。しかし聞いたら建物はもう十年以上経っているし夏場には冷房がきかないエアコンもある。だから仕方ないのかもしれない。しかしそれでは営業所のほうがぬくぬくしている理由がわからない。上着を着てネックウォーマーまでして私はバカ丸出しの南極観測隊のようであった。私は寒がりなのであった。


ここ数日は集中を要する作業だったから私は集中ししょっちゅう点をあおいだり目の間を人差し指でつまんだりしていたら栄養ドリンクをもらった。「もらいものですが」とのことだった。その日は比較的おとなしかったが今日になると悪口大会が始まった。お局ポジションが休みだったから残りの人たちが彼女のシフト表を見ながらやんややんや言っていた。私はそれを見て死体を蹴り飛ばす行為を連想した。もちろん生身も蹴っているのだがお局は所長とも結託しているから一筋縄ではいかないようだ。切実だが気楽にも思えた。


いくつか勤めた場所のひとつで面接の時に「気の強い女の人が多いが大丈夫か」と確認されたことがある。それは派遣の面接だったから私の採用はほぼ決まりだったが私は律儀に「いわゆるお局的な人と仕事もしたことがあるので大丈夫です」と頼もしい返事をした。私は結局そこを半年くらいで辞めるがそれはお局とは関係なかったから私の言葉は嘘ではなかった。単純に女性が多く女性の百貨店みたいな部署だった。人前でオナラをするのから婚約を破棄されるのまで揃っていた。二児の母の一見優しそうなひょろっとした女がいちばん怖いらしく実質的なボスだった。婚約破棄は見るからに怖くいつも他部署のフラッテリー・ママみたいな女とフロア中を練り歩いていた。私はそれらとはあまり関わらなかったから単に運が良かっただけかもしれない。きつかったのが隣の女でデータのチェックをお願いしたら「大丈夫でした」とメールを送ってきて「それくらい言えよ」と思った。何時間かおきにデスクに薬剤をふりかけて雑巾で拭いていて私はまともじゃないと思った。あと隣の畑だったがちょうど私の目線の先の席の女が日に日にやつれていって見ていて痛々しかった。隣がサーファーみたいなイケメンだったがその部署は徹夜がざらでやはりまともでなかった。

会話

小説の会話のリアリティについて私は思うことを書くがまず初めに思いついたのは小島信夫の「寓話」であの中で小島と森敦の会話が出てくる。森敦も実在の人物で小島と「寓話」の内容「あそこが傑作だったね」みたいな話をする。本の中でタイトルと同名の本が出てくるときというのは一般的にそもそも本のタイトルが本そのものを指していなかったりまたは本の中の本はまったく別物だったりして数学で言うゼロ除算とかなんとか参照を避けようとするが「寓話」に出てくる寓話はそのものである。じゃあどうやって矛盾を避けるのかというと寓話は雑誌に連載されていたので前月号の内容について二人は話すのだ。考えてみると単純な原理だがこういうことを大真面目にやっている小説は読んだことがない。「コロコロコミック」とかだとマンガの中でその漫画を読んだりしている描写が出てきてアハハとなる。しかし寓話はアハハとならない。奇妙な小説である。


二人が電話で「寓話」について話をしていると森敦のほうに来客があって「ちょっと待っててくださいね」となる。しばらくして戻ってくると「宅配便でした」と言う。そして二人はぜんぜん違った話を始める。リアルな会話とはそういうものではないかと思う。小説やフィクションの会話を読んでいるとどうやら登場人物が自分が登場人物であることを自覚している風にかんじる。たとえば私はけっこう耳が悪いから相手の言葉の意図をくめずに何度も聞き返してしまうことがあるが話の中の人たちはいつだって意味をもらすことはない。逆に聞こえないときはとことん聞こえないという具合なのである。どうして100か0になるのかというと伝えるほうの内容がメッセージ性満載だからである。だから伝わるか伝わらないかみたいになる。


私たちは実生活において確かに物語の主人公のように振る舞うときもあるがときには神のようにというか万物そのもののように振る舞うときもある。フィクションの会話はそういう視点が欠けているというか欠けないとフィクションにならないと思っている節がある。私もそうだ。だから自分がいざ小説を書こうとするとどこから嘘をつこうかみたいなことを気にしてしまうしまたブログを書くときには嘘を書くと申し訳ない気持ちになってしまう。調子がいいと嘘がばんばん書ける。事実と違うことを書きながら事実のほうがねじ曲げられる瞬間が気持ち良い。

短歌の自由201702号

題詠 5首


1. 洗

二そう式洗濯機を写真とるとおさまりきらないツマミ割れても


2. 鬼

鬼という字が名字に入る人は怖そうだけどヒト科の一種


3. 入

花が生けーー昨日のトイレ入ったら仮設だったがーーてあって和んだ


4. チョコ

父の部屋の扉がチョコのようだった前にも書いた短歌の目とか


5. きさらぎ

弟が坂をくだってきさらぎと名づけられたゆるすぎる走る



テーマ詠

テーマ「夢」


年末に来なくなるからと煙草吸い同じこと言う怒鳴る人すら


草むしりおごろうかばかりコーヒーでもかわいそうだしでもおごられた


楽しみは?と訊かれ答えるないですと車エアコンボロくて風


独身は気楽でいいです倉庫ではピッキングばかり減価償却


私の償却期限を訊ねると子供は泣いた倉庫も燃えた


米ント:ひさびさにワクワクした。