意味をあたえる

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「かぐや姫の物語」の感想

昨夜テレビで「かぐや姫の物語」が放送されていたのを録画して、午前中に見た。今日はホワイトデーなので、家族にお菓子を買い、それを午前中に届くよう手配した。だから、届くのを待ちながら見ていた。配達されたのは11時少し前で、配達人は女だった。女は少し笑っていた。

かぐや姫」は、それ以前にも、借りた物を少し見た。五人の貴族が宝物を持ってきたりするところまで見た。三人目くらいまでだろうか。四人目の皇子は、少しはいいことを言っていた気もする。しかし、覆いを取っ払ってみると、そこにかぐや姫はいない。あそこに座っていた怒り顔の女性は、一体誰だったのだろう? 私はふと、鬼瓦を思い出した。手塚治虫火の鳥」に出てくる、我王と茜丸が対決するときに拵える鬼瓦である。茜丸の作った鬼瓦は、文字通りのアートである。あるいは、文字の域を出ないアートでもある。対して我王の鬼瓦は、その判断も見る者各々に任せられ、誰も迂闊に声も出すことができない。緊張感とはそういうものなのだ。我王はただ怒りをぶつけて鬼瓦を作った。怒りはアートなのか? 「我王」とスマホで打とうとしても一発で変換されないので、最初に「我慢」と打って、「漫」を消し、そこに王をつけた。我王とは、我慢の王様なのか。

かぐや姫の物語」では、夢のシーンが二回出てくる。「あー、今の夢だったのか」というヤツである。しかしそれは本当は夢ではなく、現実なのである。現実が枝分かれし、それから少し引き返しただけなのである。しかしそれでは、ボロボロになった服が元通りになったのがおかしい、空を飛んだりするのがおかしい、という人がいるから、「夢」ということにしたのである。しかしフィクションであれば、おかしいのは当たり前である。「おかしい」のはおかしい、と言うのなら、そもそも竹から女の子が生まれて、その子が普通の人間よりもずっと早いスピードで成長していくのも、おかしい。どうしてそういうことが、おかしくなくて、夢が夢ではないことがおかしいのか。そういうことを考えるのは、なかなか興味深い。妻は、女の子なのに、お股丸出しでいるのがおかしい、ばい菌が入っちゃう、と言っていた。

私が、以前書いた小説を知り合いに見せたら、
「死んだ人が、何ページかしたら普通に出てきて、混乱してちょっと読めなくなった」
と言われた。読めなくなったのは、私の力不足であるが、私としては死んだ人が、そのあとしれっと出てきて、
「あんたんとこの、志津ちゃん、あの子はいつも元気がないなァ。夜は早く寝させなきゃダメだよ」
と言ってくるのは、そうせざるを得なかったのだ。私はその後で、「あれは夢でした」という一文を加えた。私はその時フィクションの限界を感じた。最近はフィクションは不自由だ、ということをたびたび考える。

夢が夢ではない、という話で、デビッド・リンチの映画を思い出した。ああいうものも、あと50年とか経てば、普通に娯楽映画となるのだろう。フィクションはどんどん拡張していくものだからだ。