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意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

小島信夫「寓話」

「寓話」を読んだのはもう確か2年前の話であり、そのときは図書館で借りて読んだが今年の夏に保坂和志が個人出版で出ているものを買った。郵便局で払い込もうとすると、
「ATMで払ったほうが手数料が安いですよ」
と窓口の女の人に言われたからそうした。若かったのか年寄りだったのかは忘れた。どこに何を記入するのか細かく教えられ、私は年寄りになった気分だった。とても小さな郵便局で、子供を車の中に待たせていた。思い出した。プールの帰りだった。プールはゴミ処分場に併設しており、ゴミを燃やしたときの余熱で温水になっていて、冬でも営業していた。スライダーを何度も滑った。確かブログにも書いた。アメリカ柄のビキニの女の子がいたと書いた。

払い込んでから届くまでに何日かかかったが、すでに読み終わった本なので待ち遠しいというわけではなかった。やがて届いた。

「寓話」はたしか私が初めて読んだ小島信夫の小説で、山下澄人保坂和志→の順番でたどり着いた小説家であることは、すでにこのブログでは何度か書いた。最初に「寓話」という文字を見たのは、どこだったのかはっきりしない。「残光」という最後の長編では、保坂和志が登場し、小島作品でどれが一番かという話になったとき、
「「寓話」か、「菅野満子の手紙」か、やっぱり「寓話」ですね」
と、小声で伝えるシーンがある。なぜ小声なのか。そうしてそれを言われた小島が、その二つの小説を読み返すのである。「残光」の中で。そうして読んだ箇所をそのまま引用するのである。それがなんだか、ページのかさ増しをしているようでおかしい。

だからこれから初めて小島信夫を読みたいという人がいたら「残光」がいいのかもしれない。「寓話」も「菅野満子の手紙」も入っているからとてもお得だ。ただしあくまで一部分だが。しかし特に最初から読まなければならないとか、それで面白さが目減りするタイプの小説ではない。とは言いつつ私は夏に買った「寓話」を最初からちびちび読んでいる。

私は昨日休みで家族もいないから、「積極的読書デー」として、積極的に本を読もうと思った。読む本は本屋や図書館に行かなくても山ほどあった。私は最初山下澄人の「鳥の会議」を読もうと思った。先週末に買い、もうすでに何ページか読んでいる。夏に出ていたのに、全然気づかなかった。本の新刊情報というのはどこで得ればいいのか。私は少し前に山下澄人Twitterのアカウントを見つけたのでそれをフォローし、これからは新しいのが出てもすぐに気づくことができると思い、安堵した。したら、このアカウントは宣伝臭いことをちっともつぶやかない。劇団員に子供が生まれ、その子が大きくなって風俗に行って、とかそんなことをつぶやいている。だから私は最近まで「鳥の会議」が発売されたことを知らなかった。

しかしながら、私はこの本を読むのは後回しにしようと、意図的に思った。なぜなら、影響が強すぎるから。おそらくこの話を読み切ったら、私の文体が変わるだろう。そういう予感がする。それは歓迎すべき事態なのかもしれないが、私の中の保守派が、
「ちょっと待とうぜ、今は」
と言ってくるので、それに耳を傾けることにした。その根拠や理由については私は理解している。

そこで代打として登場したのが「寓話」であったが、その前にロラン・バルト「明るい部屋」を読んでいて、これも面白い面白いという感じだったが、一ページ読むと眠くなって寝てしまう。私は午前に寝て午後に寝た。さすがにもったいないと思ったし、頭が霞がかって体は錆び付いたみたいになったので、違う本にすることにした。「寓話」にした。すごく晴れていて気持ちの良い天気だった。昼にはカツ丼を食べた。食べながら汗をかいた。店員が定期的にお茶をつぎにくるのが鬱陶しかった。店員は全員女だった。

「寓話」は、最初の章がいちばんかったるくて、次の何章かが、次にかったるい。こういう小説は珍しいのではないか。つまり、小説とは最初が肝心、最初がサービス満点なものだと私は思っている。しかし、「寓話」は最初の坂道がいちばんきつい。最初は夢の話で、登場人物と抽象的な会話を繰り返す。それで、次の回から物語のようなものが始まる。始まると、夢そのものがなかったかのように、扱われる。というか扱いが一切ない。

それで私は二年前に読んだときには全然わからなかったのだが、「寓話」は「燕京大学警備隊」「墓碑銘」という小説の続編にあたる話であり、それは読んでいるうちに自然とわかるのだが、続編、というか、ざっくばらんに言ってしまうと、「寓話」は、前作の登場人物が、その作品の自分の扱いについて文句を言ってくるという話なのである。自分の作品の登場人物が、というのは昨今いくらでもあるストーリーであるが、この人物、浜中は実在する。実在するていで、話は進む。そしてここからがややこしいのだが、まず「燕京大学」の方が古い話なのだが、これは作者の実体験を元にした、小説なので、浜中は名前は違ったが浜中そのものとして登場する。そして、「墓碑銘」のほうは、創作であり、簡単に言えば「もし、燕京大学の浜中が、レイテ島に言っていたら......」のような、ifシリーズみたいな体裁なのである。実際小島信夫が戦時中に所属した部隊は、レイテ島に行き全滅するのだが、その少し前に小島信夫は別の隊に移って生きて終戦を迎えるのだから「ifもの」というのには軽すぎる。話をまとめると、浜中は2パターン存在する。

それを最初のほうで小島は、まるで別人のように扱っているからややこしい。「一方レイテ島の浜中は......」みたいな書き方をする。作者本人が「墓碑銘」を読み返し、確認する場面もある。私が気に入ったのは以下の箇所。

読者は浜仲の手記が小説家の文章に似ているばかりか、どうも枯れたところさえかんじられるので、苦笑されることと思うが、これが浜仲という青年なのである。

これは「墓碑銘」の中に出てくる浜仲の手記の引用の後に出てくる一文である。苦笑しているのは間違いなく作者自身である。しかし、小説を読みながら「小説家の文章に似ている」とはどういうことなのか。もちろん、「浜仲」は小説家ではないから、文がうますぎるのは不自然だが、しかし考えてみるとそういうのは読者との了解事項となって勝手にスルーされる。逆にスルーできない人というのは小説が読めない。私は自分の記憶で「浜“中“」と書いたが「浜“仲“」が正しい。

私は家族がNHKの朝のドラマ「朝がきた」を見ているから私もちょくちょく目にするが、そこで商人たちを集めた会議のシーンがあって、会議はまだ始まっておらず、おそらく主人公の到着待ちといった雰囲気でそこで主人公というのは女でありながらなかなかのやり手で、みんなが
「なんだあいつは......」
みたいな噂をしているシーンなのである。ところが、その商人たちは実にお行儀良く、まるで野球の攻守交代みたいに一人ずつ彼女に対するコメントのみを披露し口を挟むものはいない。私はそれを見て
(なんなんだ、これは)
と思ってしまった。普通人が集まったらもっとざっくばらんにしゃべりたい人が同時進行で喋るし、例えば微妙な人間関係もあるから、特定の誰かが喋り出すと急にそっぽを向く人とか出てきたりして、外から聞いたってなんのことだかわからない。しかももっと下世話なことだって喋りたいはずである。彼らはまるでテレビの前で話を聞いている人を意識しているようだ。しかしそれは朝の忙しい時間に家事を片手に見るものだから、多少は真実味を犠牲にしてでも、視聴者をストーリーに食いつかせておかなければ、誰も見なくなってしまう、なんでもリアルならいいってもんじゃない、という気持ちというか事情は理解できるが、やはり私はもうそういうのが透けてしまった時点で真面目に見ようという気が起きない。だけどそれは仕方のないことだ。それはおそらく人それぞれ、個性のようなもので、例えば私は漫画や小説ならば、すんなりと受け入れて楽しめるタイプなのである。

話を戻すとつまり小島信夫は、自分の小説すら嘘っぽく見えてしまったので苦笑したのである。

それで、7章とか8章でようやく浜仲から送られてきた手紙が紹介されるようになり(そもそもことの発端は浜仲の手紙であった。暗号で書かれていて、解読のキーが、小島信夫の「墓碑銘」なのである)、そこから小説はいよいよ離陸したという感じになって一気に面白くなるのだが、それではそこまではなんだったのかと言えば、小説を捕まえるために、息を潜めていたような、あるいは逆に小説を油断させるために、わざとうじうじ悩んでいる風を装ったのである。何故そんなことをする必要があるのかと言えば、そうしなければ思わず書きながら「苦笑」するような、小説のような小説しか書けなかったからである。