意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

架空のインタビュアー

一昨日かその前くらいの通勤中、妄想インタビューを受けた。インタビュアーは意地悪だった。

ーーあなたは自身のブログの中で、度々小島信夫「寓話」を取り上げているが、その魅力ってなんですか?

私:ちょうどこの前に読んだぶぶんで、宮内寒爾(爾は弓へんがつく)という人が出てきて、「小島さんが今連載してらっしゃる「寓話」を読んだんですけど、これこれこうですね」みたいなことを言ってくるあたりですね。

ーー物語の中に、物語られている本そのものが出てくるってことですか?

私:そうです。

ーーでもそういう設定って、今は普通ですよね? もっと他にないんですか?

私:うーん、でも主人公も小島本人だし、宮内という人も実在っぽいんですよね。たぶん、実際に交わされた会話だと思うんです。設定、というともっと作り込んでいる感じがしますけど。例えばAという小説のなかにAという小説が出てきたとしても、作者は破綻するのを恐れて、中の小説の方はA' というふうに区別すると思うんです。でも小島信夫って、そういうのを恐れてないんです。

ーー作者の実体験を書くのは私小説ですよね。もっと他にあるんじゃないですか? 思うに弓岡さんはもっと色んな小説を読んだほうがいいんじゃないですか? あるいは、その「寓話」をもっと不確定読み込んだ方がいい。じゃないと、読者には何も伝わりませんよ

私:(ムッ)

てな具合である。意地悪なインタビュアーと言っても、私なのだから容赦してしまっているぶぶんもあるが、確かに私は「寓話」という小説は、保坂和志が面白いと言うから読んだのであって、そういう後ろ盾なしにある日行った本屋に平積みされ、手にとって数ページ読んだとしてもおそらく買わないし、仮に手元にあっても最後まで読むのはかなり難しい。とても長いから。サミュエル・ベケット「モロイ」は1ページで投げ出すだろう。だから、
「じゃあそんなに好きってわけじゃないじゃん」
と言われたら、その通りだ、となる。しかし理屈にならないレベルでは全然その通りではないから、私はそれらの言語化を試み、実際その目処もついたから以下に書こうと思ったが、面倒になったから、あとは読者に丸投げします。私は今まさにこれを書く瞬間まで気づかなかったが、「言語化」というのがある種の罠なのだ。罠にはまってしまうと、自分のためになることしかできない人間になってしまう。

そういえばもうすぐナミミの入試があるが、昨日塾へ行ったら試験の点数を記入して出すように言われて、封書を持って帰ってきた。入試が終わればもう塾に行く用はないから、郵便で出してくれ、とのことだった。通常入試の点数は生徒には知らされないが、手続きすれば知ることができ、その手続きは面倒だった。妻は
「教える必要はない」
と主張し、私はグレーだった。グレー、というのはできるなら教えるつもりだが、手続きがあまりに面倒だったらイヤだなあ、みたいなグレーだった。妻が教えない根拠は、ナミミの通った塾にはあまり気の利かないぶぶんがあって、お母さんネットワークで他の子の塾だとここまでしてくれるのに、うちの先生は言わなきゃやらない、みたいな話を私も夕食時に何度か聞かされた。私も単独で面談に臨んだりもしたが、やはり商売だからいたるところに金儲けの仕組みが張り巡らされていたり、あと、ホワイトボードの向こうの長机で生徒が自習しているのに、子供の通知表を読み上げたりと、確かにデリカシーに欠けるぶぶんもあったが、特に致命的なところはなかった。

そうなると単なる夫婦の感じ方の差となってしまうのだが、私としてはやはり次年度以降の受験生のデータとなって役に立てるチャンスがあるなら、なるたけ貢献したい、という気持ちがあるから妻の主張には疑問を抱く。しかし私が一番に貢献すべきは家庭内平和なので、抱いた疑問は抱きっぱなしで食べ終わった茶碗を流しに持って行った。カレーライスを食べた。

それで、少し前から思い出したことがあって、私が小学校一年か二年のときに、休み時間に校庭でボール遊びをしていて、やがて休み時間が終わったら私たちはボールを校庭に放置してしまい、担任が激怒した。担任はそのとき、
「ボールは出した人が必ず片づけなさい」
と注意し、そのことを私が家に帰って両親に報告すると、
「出した人が片づけるんじゃなく、遊んだ人全員が片づける義務を負うべきだ。もしくは遊んでなくても、気づいた人がやるべきだ」
と担任を非難した。もちろん私はそのことを担任には喋らなかったが。

私は昨日の妻の主張、引いては自分のメリットになること以外の負担は引き受けない、という発想は、子供時代のこうした教育の影響なのではないか、とふと思う。