意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

セルフの

ルフレジのことが話題になっているが確かにあれは面食らうがそこまで大事でもないように思う かつてセルフのガソリンスタンドが登場したときはどうだったのか セルフサービスの食堂で皿をかたす場所を把握するまで落ち着いてご飯を食べられなかったのはかつての私だ 私はスーパーのセルフレジはまだ単独では経験がないがレンタルビデオ屋ではここのところいつでもセルフだ 私は借りるのはいつも漫画なので先日DVDを借りたらロックを外すのができなくて焦った かなり力を入れても取れないから店員を呼んだら磁石の力を使うのだそう よく磁力と重力ってどっちが強いんですかみたいな話がでると磁石を下向きにかざすと下の釘だとかが上に引き寄せられるから磁力のほうが強いのだそう だからレンタルビデオで力いっぱいロックを外そうとしても無駄なのだ 会社の人は家でバールを使って引きはがしたことがあるそう 防犯ゲートで引っかからなかったんですかと訊いたらあのロックはそういう意味合いではないそうである


とにかく私は映画を見ないからレンタルDVDは滅多に利用しないがレンタルビデオ店の店員の「やる気ゼロ」の態度が切なくて極力セルフを利用するのである セルフができてほんとうに良かった 何年か前まで家の近所にレンタルビデオ店があったときはカウンターの上の客向けの注意書きのパネルに店側の宣言として
「私たちは私語は一切しません!」
とあって本当に最低限の会話しかない風で奥で黙々とダンボールをつぶしたりしていて見ているこっちの息がつまりそうだった 店長の名札をつけた若い男はメガネをかけていてその奥の目がまさに死んだ魚の目でいつも借りるのをもう止めてしまおうかと迷った オマケにその店舗はミニゲームコーナーが併設されていたがスロットの台の前には朝早くでもジャージにサンダル履きの男が陣取っていてそれを見るだけで滅入った 24時間営業の店だった トイレはきれいだった

家事にも対価を

道徳の授業で「お母さんの家事にもお金を払うべき」という子供の意見が「母の愛は無償」という教えにかき消された瞬間 #クロ現 - Togetter

少し前に行動経済学の本を読んで保育園のお迎えの時間を守らない保護者が多いので遅れたら罰金を払うシステムにしたら遅刻の件数は前よりも増えたという実験結果がでたという話が載っていて私の直感に反するが家事に対価をみたいな考えが浸透したら同じようになるのではないかと思った 同じの意味は実施した人の思うような結果にならないという意味での同じだ 私なりに行動経済学を解釈するとつまりお金が絡まなければ人は寛容で絡むとシビアになる よくあるのが安く請け負うとそれがスタンダードになって後の人が困る(から安くしない)みたいな考えでだから対価の発生する労働には慎重になる みんなが慎重になるというわけではなくその辺がきっちりできる人がいわゆる「お金持ち」なのだろう だから将来家事を担わない人の稼いだお金から家事労働者にお小遣いを払う慣習ができたとしてお金をけちると夕食の味を落とされたり洗濯物を後回しにされたりするのだろう 私も今朝洗濯するときに妻に「あまり洗濯機に物を詰め込まないよう注意され仕方なく自分の寝巻きを洗わないことにした 私は対価をもらおうとも思わないしよくできた夫だとも思わない 私は単に妻の家事の仕方が気にくわないからやっているだけなのである だから今日はたまたま休みでしかも朝は寒かったせいか体が重くてなかなか起きあがることができずに義母に洗濯機を先に使われやむを得ず妻の前で洗濯をしなければならなかった 普段は起きてこないうちに素早く回してしまうのである


私の子供のころはお手伝いの対価としてお小遣いをもらうというのは固く禁じられていて両親も請求した私に「わが家はそういうやり方はしない 手伝いは手伝い、小遣いは小遣いだ」と口に出して伝えた だから手伝いは本人の意思に任されていて頼まれごとを断っても怒られることはなかった 洗濯物を干しっぱなしにしても怒られなかったが雨が降ると隣の家の人が乗り込んできて気まずいので自主的に取り込むようにはした 当時はずいぶん融通のきかない親だと思ったが上記記事の家事の対価みたいな話を読むと結果的に行動すべてに金がからむみたいな考えにならなくて混乱が少なかったように思う だから母親が0円の請求書を子に出したというエピソードも単なる皮肉か冗談にしか思えない 私なら子が請求書を出してきたらそれはきっちり払って二度と頼まない旨を伝えるが揉めるからやらない

菜々緒のドラマが面白い

昨日は録画した菜々緒のドラマを見た 最初はディーン・フジオカの「モンテ・クリスト伯」を見ていたがなんだか難しくて途中で見るのをやめてしまった 去年に原作を読んだところで読んだきっかけは小島信夫の「寓話」に出てくるからであった 「モンテ・クリスト伯」はページをめくるのがもどかしいくらいだったので小島信夫のことは忘れてしまってそのまま三国志だのを読むようになってしまった モンテ・クリスト伯は主人公のダンテスが婚約者と原っぱでいちゃついている脇で悪党3人が昼間っから飲んだくれている序盤の場面がドラマでも再現されていて良かった しかし高橋克典が出てきたあたりでもういいやとなった


その点菜々緒のドラマは単純で良かった 妻が何度も「スカッと・ジャパンみたい」と言っていたがその通りだと思った 菜々緒は何をやってもスカッと・ジャパンなのだろう 非情に見えて情に厚いのである しかし話を思い出してみるとすっかすかである 主人公のセクシー・ゾーンの男の子はいてもいなくても同じである ずいぶん大きなリュックを背負って出社するが一体何を持ってきているのだろうか スーパーファミコンだろうか 子供の頃祖父母の家に遊びに行くのにそういえばリュックにスーパーファミコンを詰めて行った それを持って遊ぼうという魂胆なのである ビデオ入力端子にさえつなげば遊べるから私にとってみれば携帯ゲーム機だったのである 両親は呆れていて私も自分で「何をやっているのだろう」という気もしたがビデオ入力端子のある家に行くのならとにかくスーパーファミコンを持って行かないと気が済まない年頃だったのである 今ならばモンテ・クリスト伯をリュックに詰めて行くのだろうか あれも七冊くらいあった気がする(私は電子書籍で読んだ)

友達の家

友達の家から帰るときに友達は送りもせずに私はひとりで玄関で靴を履いていたことを思い出した 友だちの部屋は2階にあったので私の孤独感は半端なかった その家の玄関は日当たりが悪くてひんやりとしていた 地面にはタイルなどはなくコンクリートのみだった 季節は晩秋で風が冷たくて強かった 私はその中を自転車で帰った 風が冷たいから外を歩く人などいなくて辺りは薄暗く早く家につけばいいと思った 家につくとほっとした ガレージの奥に自転車を乱暴に押し込み家に駆け込んだ 台所で母が揚げ物をしていて部屋は明るく天国のようだった 父はいつも仕事が遅いので私は居間の父の座いすに座って家長のように振る舞った 妹と弟とアニメを見た 何のアニメか忘れたが終わりの歌の歌詞に「赤いパンプス」と出てきてこれはパンツとは違うのか? なんなんだろう? と思ったが妹や弟にはわかるはずもなかった それからご飯を食べて風呂に入って宿題をして寝た


私は大人になって結婚をして子供も生まれたが当然だがその頃の気持ちになることは皆無だった

海産物

那珂湊でタコを食べた その前は花を見た 私は花に興味がないからそれほど楽しくはなかった 斜面があってそれを上り下りしそれから日向が暑くてイライラするようになった 朝4時半に起きてそれからなぜかここ数日花粉症がぶり返した ネットの花粉予報まったくリンクしてなくて当てにならない 腰を下ろしたい なんなら横になりたいくらいだったがベンチはどこも埋まっていた 朝8時には到着したがぞくぞくと車が入ってきてぞっとした なぜそんなに多数の人が週末の朝っぱらから花をめがけてやってくるのか理解できない 宗教の類かもしれないと思った 花教である きれいはきれいだがやはりところどころに草が生えたり犬がいたり写真の方が余計な物がなくてきれいだった あと小さい子はみんな機嫌が悪かった 子供は見るだけのものなんて退屈に決まっている


その後神社に行ったら今度はおそろしく寒いので少し車で休むことにした 外を眺めたら同じ形の屋根ばかりの家屋が並んでいて同じ大工が建てたのかしらなんて思った 家族は割合早く戻ってきた それから那珂湊に行って屋台で焼いたタコを食べた 店の人は海産物みたいな顔をした男で愛想が悪そうだったが焼いている間に私の子供に話しかけたりした 3本も買ったから少しはおべっかでも言おうとしたのだろうか 何にせよ退屈だったがその辺の死んだ魚を眺めながらタコを頬張ったら幾分気分が良くなった タコがプリプリして美味しかった タコと書いてきたがよく考えたらイカだった


それからまた別の神社に行ったらガールズ&パンツァーの凝った絵馬がたくさんかけられていて見応えがあった ずいぶんたくさん書いている人がいた 「絵がうまくなりますように」と添えられているがどう見ても本心で書いているようには見えなかった 他の絵馬の絵を見て自分より上か下かランク付けしているようではダメである それから階段を降りて海岸まで降りて海に向かって石を投げた 私は石を投げるのが下手なのだが今日は腕より背中が痛くなったから上手に投げられたのかもしれない そして石段を登って帰った

自分に敬称をつけないのには無理がある

いつだったか自分の話の中に自分が登場するときに敬称をつけるのはおかしいと書いたが、自分が登場するというかこんなこと言われましたみたいな話をするときに相手の言葉を再現しようとすると敬称がないと難しいということに最近になって気づいた おかしいと思った原因は私の場合再現よりも要約して話すこと多かったから敬称をつけると一人称が「ぼくちゃん」みたいなふざけたかんじになると思ったからだ しかし最近になって相手の口調を真似したくなるのでそうすると敬称をなくすと呼び捨てになってしまうから変だ ここのところ色んな地方の人と仕事をするからやはり口調もきちんと真似しないと気が済まないのである 家でも真似していたら子供がさらに真似をしてだんだん上手くなってきている

鏡文字

コンビニの駐車場で妻と子が買い物するのを待っているときにふとサイドミラーを見るとコンビニのガラスの貼り紙が鏡文字になっていて新鮮だった もうずいぶんと鏡文字なんて見てない気がした 鏡で自分の顔を見たときにも久しぶりとかんじるときがあるから、鏡にはそういう経験を無にする作業があった しばらくサイドミラーを覗き込みながら鏡文字なんてまったく読めない風を装う遊びをしていると文字列の中に急に読める文字があって驚いた 「田」とかの線対称の文字ということではなく「お得」と書かれていた 私宛のメッセージかと思い振り向くとそもそものほうが鏡文字なのであった なぜ鏡文字なのかというと店内向けのメッセージが透けて外から見えていただけの話だった