意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

ズイショ氏の文章がむずかしい

一昨日に、私が千と千尋についてここで書いたら、ズイショ氏がブックマークコメントをくださり、コメントをくれた方は他にもいたが、私はズイショ氏が何を書いているのか意味がわからず、それは最後が「すごい」で締められているのだが、いったい誰がすごいのか宮崎駿なのかズイショ氏なのか、それとも私なのかわからない。だからそれを記事にしてやろうと思い、今読み返したら、なんとなく意味がわかってしまい、これ以降書こうとしたことが、すべて嘘になってしまった。

私はコメントの中で「絵があがってきて」というのがあったのだが、これは作業現場で宮崎駿のお弟子さんが描いた絵を持ってきて、宮崎さんが髭面で煙草をふかしながら、
「うーん、これホントに面白いの?」
みたいなのを浮かべたが、そうではなくて、絵があがる、というのはテレビとかで「今度の宮崎映画はこんなの! 独占公開!」とか言って最新画像が動く状態で視聴者に届けられるのを、指すのかもしれない。私は生まれも育ちも埼玉県だから理解できないだけで、ズイショ氏はブログを読む限り関西の人に見えるから、関西では「絵があがる」という言い回しをするのかもしれない。そうしたら、今朝更新されたズイショ氏のブログを読んだら、なんと北海道生まれということで、だからなんとなく意味がわかってしまったのかもしれない。だからと言って私は関西に恨みがあるとかではない。

ところで、ここで話は恒例の小島信夫の話にいくか、私の誤読のひどさにいくのか、迷うところなのだが、誤読のエピソードとして、昔THE YELLOW MONKEYの歌の歌詞で
「防ぎようないね♪」
というのを、
「布施木、用ないネ♪」
と聞き違え、というかそれは聞き違えではなくただのネタなのだが、しかも弟のネタなのだが、何が面白いのかと言うと、当時のバイト先に布施木というのがいて、それがどんくさかったから「用なしだネ」という意味だ。だからこれは誤読でもなんでもなく、ただふと思い出したから書いただけ。ちなみに布施木はどんくさかったが、悪い男ではなかった。

一方小島信夫のほうだが、これは先日保坂和志の「小説の自由」を読んでいて大笑いした、と書いたやつで、小島信夫の晩年の作品には保坂和志がたびたび出てくるのだが、小島はどういうわけか保坂のことを秀才だと思っていて、作中でもたびたび
「僕は秀才ですから」
と言わせているらしく、保坂はそれに困っている。しかもそれは創作ではなく、実際の会話を元にし手書き起こしているから、保坂としても自分で言った内容はおぼえていて、ただし「秀才ですから」とは言っておらず、何度も小島に訂正をお願いしているが、一向に認識が変わる気配がないそうだ。つまり小島は本気で保坂が秀才だと思っていて、実際にそれを口にするような奴だと思っている。

私が大笑いしたのは、以下の部分(保坂和志「小説の自由」から引用)

『ラヴ・レター』ではさらに、こんなことが書かれている。

彼は自分のことを秀才だというときに、「ぼくのほかに友人のKと、この二人は間違いなくそうで、そうそうもう一人いる。目立たない方面で仕事をしているが、......」という。この三人は高校の同級生である。ぼくはこう書きながら、彼のほかのふたりは、「ぼくは秀才です」とはいったことがないのではあるまいか、と思う。

だから私だって、そんなこと言ってない。
この引用部分で読者は「ぼく」以外に「秀才」二人いると思うか、三人いると思うか。一回目に出てくる「二人」とは「ぼく」を含む二人ということだろうか、「ぼく」を含まずに二人なのだろうか。

今日私はAndroidスマートフォンATOKを入れたら結構文字を打ちやすく、思っていたよりもストレスを感じずに書き写すことができた。私はここの部分を読んだときには、二人なのか三人なのかわからなくて笑ったのだが、こうやって文字にすると案外簡単にわかる気がして、不思議だ。