意味をあたえる

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ストーリーは、何を隠すのか

骨まで愛して - 美の特攻隊

今日こちらのブログを拝見させていただいていて、タイトルに骨と付いていたので、私は写真から骨を見つけだそうとし、それは実物の骨などではなく、比喩としての骨だから、私の中の虚栄心が、見えるものすべてを骨に見せようとする。

だが一枚目はただの外壁にしか見えず、排気口がどこか懐かしい感じがしたが、今目の前にはもうその写真はないから、もちろん消えてしまったとかではなく、私が今こうして書いているから見られないだけの話だが、とにかく、私はそういう建物を見ながら、釣りをした記憶がある。

二枚目を見てもわからず、それは工事の足場がたくさんの穴を並べており、私はふと、この穴が人の大腿骨の径と同じであることをいいたいのではないか? とか思ったが、そんなことを思うのは私だけだ。あるいは、大根おろしを削る、プラスチックのやつに見えた。(正式名称知らない)

三枚目を見てようやくぴんときて、そうすると一枚目二枚目もみんな、骨に見え、まだ見ていない四枚目も骨に見えてきてしまう。私はストーリーというのは複数の同類項を探すことから始まる、ということに気づき、嬉しくてそのままコメントを書き込んだ。抽象的な物言いになってしまうと思ったし、あとから見返して今日の記事にしようと思ったから、ブックマークのコメントにした。

それから仕事に戻り、私の職場にまた新しい人が来て、奇妙なことに人が増えるごとに部署の平均年齢が上がる。別に奇妙なことではないが、こういうことをうまく小説にすれば賞がとれそうだ。

それで私はストーリー、ストーリー、と浮かれていたわけだが、しかし肝心の写真を置き去りにしていることに気づいた。私は写真を見る目がないが、目がないからと言って、見ることを放棄するのは怠慢だと思った。ストーリーを発見すると、途端に視野が狭くなる。脳は余計なメモリの消費をおさえようと、対象を記号に変える。

私は「見る目がない」とかつまらないことを言う前に、レンズを向けているその人の目の奥まで思考を伸ばさなければいけない。「骨まで愛して」というのはそういうメッセージを含んだタイトルなのではないか、と勝手に考えた。