意味をあたえる

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小島信夫「菅野満子の手紙」

この前私は「うるわしき日々」という小説を読んで、ちょうど読んでいる途中で付箋を購入し、面白い箇所にぺたぺたと貼りながら読んだ。とても細い付箋で、太さがちょうど一行分なので、面白かった箇所をピンポイントで指し示すことができる。あとは縦のどの部分なのかだけを記憶しておけばいいからこちらは楽だ。もっとも、面白い箇所なのだから、おぼえるまでもなく、また完全に忘れた方が、再読したときに面白みは増す。

だけれども、今回は図書館で借りた本だから、付箋を貼ることができない。それともみんなは、一度は貼ってから、返すときに剥がすのだろうか? そういうのもいいかもしれないが、やはり面倒だ。

だから、私は今朝短い時間しかこの本を読めなかったのだが、とても面白く、途中で車のエンジンを温めるためにエンジンをかけて、戻ってきてから、あと10分したら出ようと思い、その10分を読書にあてることにした。今朝はとても寒く、前日に雪が降ると言いながらも結局は積もることなく、しかし何かしらは降った。そして降りながら凍った。車のドアを開けるときに
「バリバリ」
と言った。小さな音だったが、聞き逃さなかった。取っ手に水滴がついていたが、水滴も凍っている。
「凍ってるから、早く出るよ」
と妻に告げると、
「なにが凍ってるの?」
と妻。
「なにがって......全部が。水分を含むもの、全て」
「どういうこと?」
妻はまだ起きたばかりで、外を見ていなかった。私はその前にネモちゃんを集合場所まで送っていたから、逆にそういう言い方しかできなかった。道路も凍っていた。道端のトラックの、フロントガラスの氷を、運転手が一生懸命剥がしていた。電線が一度凍り、それがとけて水滴が垂れた。墓石も凍っている。私の住んでいるところは、交差点の一角に墓があったりする。竹藪の中とかにもある。それから家に帰って本を読んだ。

電話の場面を引用する。

何だか、あなた、わたしの申しあげていること、よく分らないっていうご様子なのね」
「半分ほど分ったというべきかな」
 彼女はたのしげに笑った。
「半分ですって。何が半分なの。それなら、のこりの半分は何ですの? 半分だなんて。全部分ったとおっしゃい」
「その半分とは」
と私はいった。
「奥さまは、まだ見えるところにいらっして?」
「家内ですか?」
 彼女は見えないところへ行ってしまおうか、このままこのあたりにいることにしようか、その背中は考えているように思えた。
「あなた、そこから、声をかけてあげなさるとよかったのに。そういうことをなさるべきよ。わたしには分っているわ。あなたは、声をかけたりするよりも、しない方が彼女とのつながりは深いのだと。わたしも近頃そんなこと思うようになったわ。どうして西洋人は、思っていることを何もかも口に出すんでしょうね。あれはほんとうに思っているのではないのかもしれないわねえ。だってほんとに思っていることって、自分でも分らないのじゃないかしら。あなた、さっきの続きの請求をなさらないのね。たいへん不親切よ」
「Oさん、ようやく、分りましたよ、あなたのいわんとする意味が」

(p47)

引用は最後から二つ目のセリフだけで良かったかもしれない。私は肩が凝った。この本は全体で500ページ以上あって、辞書のように立たせることも難なくでき、膝に乗っけて書き写すことに向かない。しかもまだ冒頭といっても言い部分だから、開いたときの左右のバランスが悪く、引きちぎらないように、余計気を遣わなければならない。それと、「分からない」の送りがなが今と違い、本文は「分らない」「分った」などとなっているが、携帯の変換が対応しなくてイライラした。

話について補足をすると「私」は山の中の別荘にいたら、知り合いの女流作家が電話をかけてきて、かけた方は、奥さんがいるのに自分と話していいのかしら、という感じに、しきりに奥さんの居場所を確認する。それに対して「私」はそばにいると言うか、遠くに行ったと言うか迷う。しかし、これは読み方によっては、そばにいると書くか、遠くに行ったと書くか、小説家である小島信夫が迷っている、とも取れる。「その背中は考えているように思えた」といきなり、視点が本人の目線から離れるが、「背中」とは電話をしている小説家のものではなく、今机に向かって文字を綴っている「背中」という気もしなくもない。

ちなみに、本のタイトルの「菅野満子」とは、小島信夫の著書「女流」の主人公の名で、女流とは女流作家のことで、菅野満子のモデルの女流作家もいる。電話の相手はその人ではないが、やはり作家で、この女の人は、小島信夫抱擁家族」の主人公の妻、時子が「女流」を読んでいたのではないか、と電話で言ってくるのである。引用の「分った」「分らない」はなぜ時子が「女流」を読んだか、についての会話である。「半分」なんて、「私」は大嘘をぶっこくのである。

それにしてもこの会話のやりとりは鮮やかだ。