「パンがない?」
扉をがらっと開けた妻に、そう訊かれた。
「ないんじゃないかな?」
と、私は答える。私はさっきパンでも焼こうと、トースターのまわりをパンを探していたが、見つからなかった。パンを焼き、それを食べようと思ったのである。それで、「パンないなあ」とつぶやいた。そのつぶやきが、洗面所で化粧していた妻にも聞こえたのかと、私はびびった。私は平日はご飯ばかり食べているので、たまにはパンも良いと思ったのである。パンの賞味期限もあるし。一方ご飯には賞味期限はないが(あるのかもしれないが)、冷蔵庫の中に納豆はあり、妻は日にちとか気にせず買い込むので、一生懸命食べないと、賞味期限が切れる。私たちは日々、賞味期限と戦っている。私としては、全部の賞味期限をクラウド上に上げて、それを古い順にソートして期限の迫ったものを、アラートしてくれるようなのをやりたい。そういう性格なのだ。しかしそうすると、期限を突破した食べ物は赤く表示され、一気に食べる気をなくしそうだ。赤は食欲増進の色だっけ?
私はパンはないと判断したものの、念入りに探したわけではないので、
「ないと思う」
と弱気に答えた。トースターの下の引き出しから「あるじゃん」とか出されたら、面目丸潰れだからである。妻は出かけるところだ。昨日時間を訊いたら、
「8時40分」
と言っていたのに、すでに9時を回っている。妻は時間を細分し、何を何時までににやらないと、何分遅れるから、代わりに何の時間を省く、みたいなことができない。私は
「アフリカ人のようだ」
とこっそり思う。しかし、アフリカの人と違い、妻は苛ついているので、パンひとつにとっても、受け答えをしくじれば、たちまちケンカになってしまう。
そうしたら志津が、
「変じゃない? て訊いてんだよ」
と教えてくれた。私は「変」と「パン」を聞き違えたのである。志津は昨晩録画した「もしもツアーズ」を見ている。ネモちゃんはまだ寝ている。妻は自分の外見に不備はないかと、尋ねていて、これは彼女のいつものしょさなのであった。私は
「いつも通りだよ」
と答えた。
ネモ氏は最近高いところから落ちる夢を見るそうだ。ずいぶん若い時分から見るなあと私は思ったが、私もそんな年齢のときだったのかもしれない。私の場合は、足の筋肉が異常に発達し、普通に歩くだけなのに、学校の屋上よりも高くジャンプしてしまい、落ちるのが恐ろしい。だから私は次の一歩はかなり慎重に踏み出すのだが、それでもぴょーんとジャンプしてしまう。「これはまたいっちゃうかもな」とか、考えるのがよろしくないようだ。これはある種の期待なのだ。現実界でも、「悪いことが起きるかもな」なんて考えるが、これはマイナス方向の期待で、私たちの内部(無意識)は、絶対値の期待値をとり、それによって、何らかのアクションを起こし、引き起こしてしまうのかもしれない。起きることと起きないことの違いは、単なる確率の問題なのだ。私たちが夢をかなえられないのは、同じくらい「無理かもなあ」と思って打ち消しているからである。
今朝寝ていたら、ネモ氏が足で私のちんこを押さえつけてきて、私は自分が朝立ちしていることを自覚した。起きてから
「パパのちんこが......」
なんて言われたらたまらないので、素早く格納したいところだが、私も完全に覚醒してなくて、ぼんやりしていた。それで、私は「落ちる夢」について思い出し、ネモ氏は今頃鳥にでもなって、止まり木で休んでいるのかもしれないなあ、なんて思い、しばらくそのままでいた。