意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

いつもいじめられる側とは限らない

過去に何度か自分がいじめられたことについて書いたが逆にいじめる側になったこともある それは比較的私の地位が安定していたときでおぼえている限りで2回ある そして案の定簡単に忘れてしまうので実際はもっとあったのかもしれない どの程度相手を傷つけ損なってしまったかはわからないが私としても目を背けたい記憶である


いじめられた人がいじめた人を殺すというニュースを読んだ そこについたコメントを読むと賞賛するものがあって私はそれに同調する気にはなれなかった 別のコメントで知らないうちに加害者側になるという想像力がないのだろうかというのがあってそっちのほうがしっくりきた いじめというのは被害者側が定義するとあるから私が一体どれだけの人をいじめたのかはわからないがしかし今も現在進行形で誰かしらを傷つけている そうしたくてやっているわけではないがなんらかの行動を起こせばそういうことになってしまう可能性はある その中には自業自得なんじゃないというのもあるがそれでも傷つけたことには変わりないのである


私の受けたいじめというのは実際はマイルドなものでそこまで深刻なものではなかったのかもしれない 毎日泣いて学校から帰ったが死にたいとは思わなかった(殺したいとは思った) 学校に行きたくないとは言わなかった気がする(今日も泣かされに行ってくるわ)とこぼした気がする) 過ぎ去った今ではむしろ幸運だったとすら思える そこからずっと他人は信用できない思っていた でもそう思うことはずっと他人について考えることでもあった あるとき私はそのことに気づいたのである それは小説を書いていた高校生のときであった