ぬかるみ

電話に起こされ窓の所へ行って外を見ると、雪が積もっていた。予報で降るとは聞いていたが、ここまで積もるとは思っていなかった。おそらく5センチは積もっている。僕の住んでいる地域では稀だ。子どもの時はもっと積もったこともあったが、年々降る量も回数も減っていった。この歳になれば、雪なんて厄介なものでしかなかったが、それでも気分は高揚した。晴れた日の光が雪面を反射し、部屋の中はいつもより明るい。反面フローリングは冷え切っていて、足の裏全体をつけることができなかった。
「こんなに積もるの久しぶりだよね。小学校とかは時間差登校になったのかな」
電話口でキョウコは、はしゃいだ声を出した。まだ朝の九時だ。僕は完全に寝ていた。先週から大学は冬休みに入り、昨晩も寝たのは午前3時過ぎだ。できることなら、雪のことは後回しにして、ベッドに戻りたい。
「なんかさ、テンション上がっちゃうよね、あ、冷たいね雪って」
キョウコは、完全に舞い上がっていた。デートをしたって、これ程声を弾ませる事は滅多にない。
触ってみなよ、と言われて窓を少し開ける。冷気が胸元に滑り込んでくる。ベランダに吹きこんだ雪を撫でてみると、表面は濡れていた。ひと掴みして思い切り握ると、わずかな塊を残して、全て水になった。濡れた手が赤くなる。
「ねえ、今から会おうよ」
手を振って水を切り、手のつけ根で窓を閉めていると、キョウコはそう言った。
「何言ってんだよ、こんなに積もってんのに車運転できるかよ。弟だってもう出かけてるし・・・」
僕の車はスタットレスタイヤを履いていない。雪の日に出かけるという発想がないのだ。弟は反対に、家にじっとしていられない性格で、尚且つ3つくらいバイトを掛け持ちしているので、12月になると早々とスタットレスタイヤを購入した。さっき窓を開けた時に、弟の黒いセダンが見えたが、キョウコにはとっさに嘘をついた。
「歩いてくればいいじゃん。2人で雪の中散歩しようよ」
僕の家からキョウコの家までは車で10分くらいの距離だ。歩きでもだいたい30分で着く。だからと言ってなんで寒い思いをしながら、キョウコの家まで行かなきゃいけないのだろう。キョウコは僕の気持ちを察したのか
「だからさ、僕もそっち向かうからさ、そうすれば半分の時間で会えるでしょ」と言った。
僕はしぶしぶ了承した。結局キョウコの言うことは覆すことなんでできない。僕は10分後に家を出ることを伝えて電話を切った。

10分、と言えば朝食をとっている暇はない。僕はすぐに着替えて、顔を洗って歯を磨き、黒のフリースを羽織って、黒とグレーと白の縞模様のマフラーを巻いた。このマフラーは一昨年のクリスマスに、キョウコからプレゼントされたものだ。さらに手袋もしようと思ったが、タンスの中にはなかった。車を運転するようになってから、手袋をする機会がずいぶん減ったため、どこにあるのか見当もつかない。
僕の家は階段を降りると、すぐに玄関になっているので、家族の誰にも会わずに外に出ることができる。日が差し込まない玄関は、いつも以上にひっそりしていて、人の気配がまるでなかった。なるべく音を立てないように靴を履き、扉に手をかけたところで、靴で出かけるのはまずいことに気付いた。雪の中を靴で歩けば足が濡れるに決まっている。しかし、ぼくは長靴を持っていなかった。だいたいこんな日は出かけたりしないのだ。父親のでも借りようと思ったが、見当たらない。一瞬母親を呼んで出してもらおうかと思ったが、思い直して履きつぶしている方の靴に履き替えた。なるべくぬかっていないところを選んで歩けば、なんとかなるだろう。
家のすぐ裏には国道が走っている。その道を駅の方へずっと歩いていくと、パチンコ屋があり、そこを右に折れ、裏道を何回か曲がるとキョウコの家がある。僕の家から見るとキョウコの家は道路の向こう側に位置する。だから国道沿いを歩けば、途中でキョウコと落ち会える。道路のどちら側を歩くかはさっきの電話で決め、キョウコの家の側を歩くことになった。ガソリンスタンドを過ぎると大きな交差点があり、僕はそこにかかっている歩道橋を渡った。
歩道には、自転車の轍が何本かついていた。轍がついている部分の雪は溶けかかっていて、重なった部分は、水たまりになっていた。僕は注意深く雪が汚れていない部分を選んで歩いたが、それでも靴の底に、徐々に水が染み込んできた。ただでさえ履きつぶした靴なのだから、底が薄いのだ。

キョウコとは中古車屋を過ぎた辺りで会った。その店は、古い外車ばかりが並べて置いてあるが、売り物の車は場当たり的に適当に並べられ、ぶらりと立ち寄れる雰囲気ではなかった。完全に吹きさらしであったため、ベンツやキャデラックの屋根は雪に覆われていた。店の端にはタイヤを剥ぎ取られたワーゲンバスが放置してあり、その下に雪はなく、乾いた大地が雑草と共に露出していた。
キョウコが歩いてきた道筋の途中には、ミニストップがある。僕はキョウコはそこに寄って、肉まんかカレーまんを買ってくるものだと思い込んでいた。電話で、寝起きだということはわかっていたので、それくらいの気は効かせてくれるだろうと思っていた。しかし、キョウコは手ぶらだった。真っ白いダッフルコートから伸びた手には、茶色の手袋がはめられていた。根元には白い折り返しがついている。もしかしたら財布すら持ってきてないのかもしれない。
キョウコはグレーのキャップを被り、背中までまっすぐ伸びた髪の毛は寒風をうけ、毛先はいくらか乱れうていた。真っ白い長靴には溶けかけた雪が載っていて、ぼくのようにぬかるみを気にして歩いてきたんじゃない事が、一目でわかった。化粧をしていたが、鼻の先はいくらか赤くなっている。僕の靴は大分雪を吸い込み、靴下まで染みてきていた。
僕はキョウコの顔を見るなり「腹減った」と言った。
「じゃあ雪でも食べなよ」とキョウコは答えた。
僕はつまらなそうに笑って、それでどこへ行くの？と聞いた。
「どこでもいいんじゃない？あてもなくぶらぶらしようよ」
「じゃあとりあえず、ミニストップ行かない？腹減ったよ」
それを聞くとキョウコは顔をしかめて
「コンビニに行きたいのなら、あっちのセブンイレブンにしようよ」と言って、中古車屋の向こうを指した。キョウコが言っているのは、中古車屋の裏道をさらに進んで住宅街を抜け、別の国道に面したセブンイレブンのことだった。ミニストップなら5分も歩けばつくが、セブンイレブンなら20分はかかるだろう。
キョウコがセブンイレブンへ行きたがる理由はなんとなくわかった。キョウコは来た道を引き返したくはないのだ。誰にも踏まれていない雪道を求めているのだ。それはある意味儀式的なものだった。

仕方なく僕らはセブンイレブンへ向かって歩き始めた。しかし、5分も歩くと、僕は歩くのがつらくなった。靴の中に染み込んできた雪水によって、両足は完全に冷え切って、指先の感覚はなくなってきていた。キョウコは僕が靴で来ていることにまったく気付いていなかった。自分の雪の思い出を時系列に語りながら、ひたすらまっすぐ歩いた。僕はキョウコの歩調に合わせたため、ぬかるみを避けている余裕がなかった。ぬかるみを踏みしめた時のぐしゃっという感覚が気持ち悪かった。
住宅街の3つ目の交差点に差し掛かったとき、僕は右足の靴紐がほどけている事に気付き、その場へしゃがんだ。その瞬間
「別れよう」
という言葉が口をついて出てきた。それは完全に自分の意識の外から出た言葉で、自分の声には間違いなかったが、他人が言っているように聞こえた。僕は慌てて顔を見上げ、キョウコの反応を伺った。キョウコは僕がしゃがんだことに気付かなかったのか、僕の少し前を歩き続けていた。振りもこうともしない。僕は安心した。もしかしたら雪が全ての音を吸い込んだのかもしれない。
キョウコは僕に構わずどんどん先へ進んでいった。雪などお構いなしの歩調だ。僕は何処まで行ったらキョウコが気づくのかと、靴紐を握ったままじっと前を見ていた。靴紐はぐっしょりと濡れ、握り締めると水が滴り落ちた。
どこまで進んでも、キョウコは僕がいない事に気付かなかった。キョウコの白いコートは、雪景色に溶け込み、徐々に輪郭を失なっていった。