意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

十字路(15)

卒業シーズンだからというわけでもないだろうが、高校時代からの仲間の1人が就職することとなった。それじゃあお祝いでもしてやろうということになり、仲間5人で集まって飲み会を開くことになった。場所は笠奈とも何度か行ったことのある居酒屋だった。そういえば、最近は笠奈とばかり飲みに行っていて、それ以外の友人とは会ってもいない。5人のうち2人は卒業と同時にきちんと就職して働き出した。やっぱりそのお祝いということで、3月に集まって飲み、それから夏前に一度集まった。その時には、就職組と非就職組には何かしらのオーラの違いが滲み出ていて、真っ黒い髪が、カブトムシの背中の殻を連想させて重厚感満載だった。そのせいなのか、飲み会での話題は、就職組が主導権を握る時間帯が多く「とにかく忙しい」「学生時代とはまるで違う」「お前らはのんきでいいよな」等の月並みで退屈な言葉を浴びせられた。見下している様子がありありと伝わってくる。。別に真面目に働いている奴が偉い訳じゃないだろう。そう言い返したかったが、そんなのは詭弁もいいところなので、トイレに言った時に酒臭いため息と同時に吐き出すに留めた。
結局境遇の違いによって、私達の友情はもろくも崩れ去った。というわけでもないだろうが、なんとなく疎遠になってずるずるとここまで来てしまった。たまにメールはするから、実際に溝ができたというわけでもないが。
だが、久しぶりに会ってみると、それぞれの状態は微妙に変化していた。生きているから当たり前なんだろう。前回非就職組だった3人のうち、1人が就職を決めたことは今回の飲み会の目的であるから知っていたが、さらにもう1人もひと月前からハローワークに通うようになり、先週1社面接を受けてきたとのことだった。
逆に就職組の1人は、圧倒的な拘束時間及び上司・同僚の苛酷なプレッシャーのお陰で心を害し、今は仕事をやめて家で療養している。今でも3日に1度は朝目が覚めると、部屋の中がぐるぐると回って吐き気をもよおし、起き上がることもままならないと言う。確かに以前より頬がこけ、顔色が悪い。誰かのギャグに突っ込みを入れる時に見えた、手の甲に浮いた青い血管が痛々しい。
1年程前は就職・非就職という二極構造であった我々のステータスも、今は就職予備軍、元就職組と多様化し、一筋縄でいかない世相を象徴していた。そんな中で、私だけが何の変化もなくのほほんとしている。変化がないのは死んでるのと同じ事だろうか。厳格に言えば、同じ会社で働き続ける事も、変化がないと言えるかもしれない。が、私のとは完全に質が違う。彼の場合は比較的波風の少ない沖に船を浮かべ、どちらを向いても水平線しか見えないと言った具合の変化なしだ。船は日々進み、どこかしらへは向かっている。私は陸地でくすぶっているだけだ。塾で9歳も年下の女の子と接するのが楽しいとか、人生の彩りはそれしかない。「どう最近?」と聞かれても「相変わらず」としか答えようがない。本当は私だって事件や心境の変化くらいあって、思わず笑っちゃうエピソードだってひとつくらいあるが、そんなのはあまりにスケールが小さくて、とても話そうという気にはなれない。
自然と私は口数が少なくなり、手持ち無沙汰になったので、ジョッキについている水滴を眺めるふりをしながら笠奈の事を考えた。笠奈は今、日本にいない。笠奈と私の物理的な距離を認識すると、記憶の中の顔やシルエットがぼやけてくる。笠奈の目が一重なのか二重なのか、本当は一重なのに化粧テクニックで二重っぽく見せてるのか、とか履いているスニーカーはアディダスなのかコンバースなのかそれとも膝下まで隠れるブーツなのか、いやそもそもそんな事に注目してたっけ?みたいな。
私はなんとかそれらを思い出して、笠奈を頭の中で100%の再現を試みて、もしそれがうまくいかなければ、笠奈と付き合う資格なんてない、と自らを追い詰める。笠奈は私と話をする時、どんな声を出すか?定番のセリフは?
何もかも、満足な解答を出す事ができない。惨めすぎる。ぬるくなったビールを喉に流し込み、橙色の照明をぼんやり眺める。かつて笠奈とここへ来た時は、もっと入口側の席で、今見ている照明の3つ先のブロックだ。
笠奈に会いたい。笠奈に会って、顔とか目とか足とか指先とか声とか性格とか、そういうのを脳の未使用領域とか全部フル回転させて、前頭葉の芯の部分に刻みつけてしまいたい。なんなら二の腕に笠奈の似顔絵を掘っちゃってもいいくらいだ。だから、今すぐこの場に現れてくれ。生き霊でも構わないから。
私は自分にしか聞こえない声で「会いたい」とつぶやいた。間の抜けた情けない声だった。目の前では4人の男たちが、大盛り上がりしている。誰かのカクテルに、別の誰かが鶏の唐揚げを放り入れ、大騒ぎしている。そんな喧騒に紛れる事もなく、私の声はしっかりと耳に届く。当たり前の事なのに、世紀の大発見のような新鮮さを感じてしまう。
飲み会はそれから2時間程続き、私もそれなりに盛り上がってはいたが、頭の中では完全に別の事を考えていた。

笠奈が日本に帰ってくるまでに、私は一度ハローワークへ行ってみた。何しろ混んでいる場所だった。ほとんどは私よりも年上で、私の親くらいの年代の男女も少なくなく、それだけで場違いな気がした。乳児を抱いた女もいて、案の定その赤ん坊は、自分の存在意義を示すみたいに泣いていた。形容するなら、病院の待合室のような風景だった。様子見と決めて行ったので、私は何枚かの求人票を見ただけで、結局登録もせずに帰った。玄関の灰皿の前には、顔中シミだらけの男がタバコをくわえながら、手ぶらで駐車場へ向かう私の事を眺めていた。

私が聞かされているのは、3月いっぱいは笠奈の代わりにミキちゃんを見て欲しい、というところまでだったので、実際笠奈が何日に帰ってくるのかは知らなかった。なので、3月最後の土曜日に笠奈から電話がかかってきて、今夜飲もうといきなり呼び出された時には、状況が飲み込めなかった。一瞬本当に生霊を呼び出したのかと思い、着信拒否しそうになった。笠奈は既に水曜日には日本へ帰っていた。
「だったらその時にひと声かけてくれれば良かったのに。いきなり呼び出すなよ」
「だって色々やることあったんだもん。もし暇だったら、て感じだから、用があるならまた今度でいいよ」
もちろん私の中では”行く”という選択肢しかない。
笠奈は若干肌が荒れてる事を除けば、特に変化はなかった。ホームステイとは何をするのか私には想像がつかないが、笠奈はすっきりした顔をしていた。一ヶ月前の受験のストレスから完全に解放され、リフレッシュしてきたように見える。
向こうでのエピソードをいくつか話してくれたが、私がそっち方面に興味のないせいか、話の要領すらつかめなかった。まあ、でも楽しかったらしい。
乾杯をした後に、笠奈はバッグから小さな包みを出して「お土産」と言ってくれた。開けてみると、見た事もないキャラクターのボールペンだった。白熊をモチーフにしてるようだが、目がランランとして、手足が異様に細い。笠奈のセンスを疑いたくなるくらいの安っぽいデザインだ。私が何も言えないでいると笠奈は「あんまし荷物増やせなかったからさ」と言い訳した。
最初は戸惑ったが、笠奈とのやり取りは徐々にいつもの調子を取り戻していった。笠奈と飲むのは三ヶ月振りだったので、安心した。だが完全にリラックスしているわけではなかった。帰り道に、笠奈に自分の想いを伝えようと決めていたからだ。そのため、心臓の一部の筋肉が冷えて固まったような感じがして、鼓動が乱れ、どれだけ酒を飲んでも酔えない。そもそも酒の味がしない。
もちろん笠奈にそれが伝わる事もなく、笠奈は上機嫌に「久しぶりだね。髪伸びたんじゃない?」と私の髪を引っ張ってきた。生きているんだから髪くらい伸びる。ミキちゃんの話しも少ししたが、茶髪の件は伏せておいた。
少し別の話をしていたが、再び旅の話に戻り、そうそう、と言った感じに笠奈はバッグから写真を取り出した。
空とか草とか家とかアメリカ人とか、ただの旅行風景の写真だった。特に面白みがないが、日本との違いに驚いて見せ、笠奈を喜ばせてあげた。笠奈の写っている写真も何枚かあり、笠奈ははっきりとわかるくらいよそゆきの笑顔を見せ、それだけはおかしくて仕方がなかった。怒るだろうから、声に出して笑ったりはしない。こんな女でも、ちゃんとTPOをわきまえるのだ。もっと色んなシチュエーションの笠奈が見たくたる。
写真の中には、一緒にホームステイしたと思われる日本人が何人か登場したが、1人頻繁に出てくる女の子がいた。彼女だけのパターンもあったし、笠奈とのツーショットや、外人と写ってるのもある。誰かと聞くと「ルームメイト」と教えてくれた。真ん中で分けられた黒くてストレートの髪は、両サイドの肩にかかり、笠奈よりも雰囲気が大人っぽくて品がある。肌は浅黒く、開かれたおでこには、いくつかニキビができている。それに対応するようい、笑顔の隙間から覗く歯が白い。鼻も高い。
私が一通り写真に目を通して返すと、笠奈はその内の1枚を選んで、テーブルの真ん中に置いた。正確に言うと、サラダの大皿と私の小皿の間だ。笠奈とルームメイトの2ショットだ。
「その子、瀬田さんて言うんだけど。今ね、彼氏いないんだって。そんで、君の話したらぜひ会いたいって。なんか独特で面白そうって言ってて結構盛り上がったんだよ。良かったら今度、会ってみない?」
私はゆっくりとビールを飲みながら笠奈を見て、それから再び写真の中の瀬田さんを見てみた。かわいくないことはない。その隣に写っている笠奈の顔も見てみるが、ちょうど照明が反射し、光に塗りつぶされてしまっている。どうしてこうなった。意味がわからない。瞬間的に”瀬田さんと付き合う私”を想定してみるが、なかなか悪くない。正直私にはもったいないくらいだ。こんな可愛い子を、大した苦労もせずに付き合うチャンスを得られるなんて、超ラッキーだ。そうじゃない。瀬田さんは確かに可愛いが、私が求めているのは別のことだ。
「この人に?会うわけないじゃん」
「なんで?」
私の言い方に、笠奈は明らかに不快そうにした。瀬田さんの容姿を非難してると受け取ったのだろう。トレードマークのファジーネーブルを持つ手に力が入っている。
「なんで?俺が好きなのは笠奈だから」
何当たり前のこと聞いてんの?というトーンで言ってみた。笠奈の目を見て、ゆっくりと落ち着いて伝えたつもりだが、笠奈にどう見えたかはわからない。視界がどんどん狭くなって、それに合わせて笠奈の顔も縮んでいく。小さくなった笠奈の顔の中で、目が大きく見開かれている。
「ていうか。今、なんて言ったの?」
「好きだと言った。愛の告白」
笠奈が目をそらす。それが、結末を暗示しているみたいで、心臓が押しつぶされそうになる。笠奈は口が半開きになっていて、何度か瞬きをした。そして肘をついて、両手で顔を覆ってしまった。指の間から、茶色い髪の毛がはみ出ている。
「どうして」
かすれた声で笠奈がつぶやく。どうしてって、好きになるのに理由なんかない。私は律儀に答えそうになるが、口をつぐむ。これは独り言で、何にせよ今はこちらから言葉を発するべきではなくて、ひたすら笠奈の返事を待たなければならない。私は草むらの影で獲物を狙う肉食獣のように、息を潜め、髪が絡まった笠奈の指先を見つめている。爪には何も塗られていない。アメリカに言ったらマニキュアを塗るのが面倒になったのだろうか。徐々に気持ちに余裕が生まれてくる。考えてみれば、もうこちらは言うべき事はなく、あとは待つだけなのだ。笠奈の方が、頭をフル回転させて、発するべき言葉を組み立てなければならない。
「彼氏いるって、言ったよね?」
「うん。でも、そういうのって関係ないんじゃない?」
「そうだけど」
笠奈はため息をついた。動かしているのは口だけだ。気のせいか、さっきより鼻が赤くなっている。ひょっとして泣いているのかと思い、慎重に首を動かして、目尻を覗きこむが、泣いてはいない。
ともかく、私の言葉を受けて、笠奈はハッピーにはならなかったようだ。だんだんと、笠奈を苦しめているような気がしてくる。苦しんでいるのは何故か。おそらく、私とのこの関係が終わるからだ。気軽に声を掛け合える飲み友達。夏になったら、また悪乗りしてお台場にドライブする。しかしそれは、友達だからできたことだったのだ。私は、笠奈のことを好きになってはいけなかったのだ。
ごめん、と言おうとしたタイミングより一瞬早く、笠奈の次の言葉が発せられる。
「私の彼氏って、誰だか知ってる?」
「知らないよ」
「君も、知ってる人だよ」
そう言われて、塾の男講師の顔が次々と頭に浮かぶ。私と笠奈の共通の知人なんて、塾の中にしかいない。可能性が高いのを3人に絞り込んだ。試しに「葉山?」と聞いてみる。

兼山さんだよ。笠奈は手を下ろし、真っ赤にした目をこちらに向けながらそう言った。