意味をあたえる

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十字路(9)

二学期になって、最初の授業の終わりに兼山に声をかけられ、ミキちゃんのことを受け持つことになった。数学と理科。「お前どちらかと言えば、理系だよな?」と、一応は疑問系の体裁で聞くが、完全に決めつけられていて、こちらの意見など全く聞く素振りもない。新たにもう1日バイトが増えてしまった。笠奈が二学期から、新しく入った生徒を担当することになり、手が回らなくなったんだよ、と付け足すように今回の処置の背景を語る。「本当は男の講師が女の子を見るのはあんまりよくないんだよね」とため息まじりに兼山がひとりごちる。私の責任とでも言いたいのだろうか。あえて言うまでもないが、私は兼山が好きではないから、兼山の言葉ひとつひとつに引っかかり「それなら俺じゃなくていいです」とつっかかりたくなる。背が低く、ぽっちゃりしていて童顔。明るい水色のストライプのワイシャツを胸元で開け、中で金のネックレスが光っている。肉厚の手。フライパンで焼くなら、わざわざ油を敷く必要はなさそうだ。指先には指輪。右手の小指、左手は中指と薬指。どれも大げさなデザインで、指がより短く見える。薬指、てことは結婚をしているのか。こんな男でも結婚ができるのは不思議だ。私はフェアな人間、またはフェアであろうと努める人間なので、こんな男にも、私にはわからない良さというか、魅力があるんだろうことは推察できる。金とか。金に釣られて好きでもない男と一緒になる女は、愚かなのだろうか。豆粒程度の収入しかない私には、答えを出す資格はないだろう。それがフェアというものだ。
関係ない金のことは置いといて、そもそも何故私が抜擢されたのか。兼山の職業倫理に叶う、害のない女性講師は他にいくらでもいるはずだ。と、考えるまでもなく、答えはわかっている。
笠奈。
と思った瞬間に、本人が奥から登場する。この女は一体なんなんだろう。私の思考と直結することが多い。考えた瞬間に、目の前に現れて、私にとって特別な女であることをアピールしたいのか。
もちろん笠奈は、私のために出てきたわけではなく、授業の終わった生徒を送るために出てきたのだ。兼山のデスクは、出入り口のそばにあるために、このような現象が起きる。生徒がドアを開けたタイミングで、兼山は「さようなら」と声を張る。兼山は大声を出すと声が裏返る。なんとも間の抜けた声だ。だが、なんとなく同調した私の声だって相当情けないはずだ。笠奈もお姉さんみたいな顔をして「今度は宿題忘れないでね」なんて言ってる。自分なんか、禁煙もまともにできないくせに。全てが茶番に見えてくる。そういえば笠奈を見るのは、あのお台場の夜以来だ。笠奈にあげる予定だった牛乳は捨ててしまったし、予備で買ったお茶も、結局自分で飲んでしまった。だからと言って笠奈が文句を言うことはなかった。長電話の後、笠奈は明らかに疲れた表情をして、帰り道は静かだった。
笠奈は私と兼山の顔を交互に見て「ちょうどミキちゃんの話してたのかな?」と聞いてきた。口ぶりから私に聞いてきたのかと思い、返事をしようとすると、兼山が先にそう、と答えた。
「あとはミキちゃん側に伝えるだけ。本人には、お前から先に言っておいて」
はいはーい、と笠奈が軽い調子で答える。何故こんなにフレンドリーなのか。兼山は、スケベだから、女講師に対しては冗談も言うが、それでも講師の方からタメ口をきく者はいない。もしかしたら、お台場での電話の相手は兼山で、2人は不倫関係にあるのかもな、と私は勘ぐる。勝手に兼山に怒りを覚える。こんなに醜いくせに、金にモノを言わせて次々に女に手を出すんじゃねえよ、バカが。もはやフェアもへったくれもない。
「じゃあ、来週の水曜日から、お願いします」
そう言って、笠奈は深々と頭を下げた。仕事のことだから、ちゃんと礼儀を踏まえたのだろう。もちろんそのような笠奈の態度に、私が傷つかないはずがない。

ミキちゃんとの授業は夏期講習と全く同じ雰囲気で始まり、授業での再会を、ミキちゃんは手を叩いて喜んでくれた。夏休みは黒い髪を下ろしていたが、今は赤いゴムでまとめている。学校仕様ということだろうか。少し幼い感じがする。夏休みの宿題はちゃんとやった?と聞くと、理科と漢字のワークがまだらしい。「笠奈先生にな言わないでね」と小声でお願いしてくる。私に心を開いている証拠と判断していいだろう。もしかしたら、兼山に進言したのは笠奈だが、その前にミキちゃん頼んだのかもしれない。夏期講習が終わった直後のマクドナルドで、笠奈にミキちゃんはあなたのこと好きかもしれない、と言っていたのを思い出す。さらにお台場の道中で「私はミキちゃんの好きな人だって知ってるんだからね」と騒いでいた。つなげると、故に私のことが好き、と公式が成り立ってしまう。と判断するのは、いくらなんでも浅はかだろう。とりあえず保留ということにしておく。
笠奈には変な責任感があるのか、授業が終わり、ミキちゃんを送り出す時には必ずついてくる。笠奈の方が早く授業が終わるため、タイミングとしてはちょうどいいからだ。が、それでも1時間近く待たなければならない。
ミキちゃんを送り出すのなんて一瞬で終わるのだから、その後は必然的に2人で話をすることになる。建物に戻れば兼山がいるので、私はその場を動こうとはしない。まだ、9月の半ばで、今年の夏の総仕上げとでも言うように、そこら中で蝉が鳴いている。汗をかくほどではないが、中と比べれば明らかに不快な状況で、時には30分くらい喋っていることもある。ミキちゃんの話題が多いのだが、夏期講習の時のように監督ぶって進捗具合を報告させるわけではない。担当が別れた時点で、何か口出ししようとは思わなくなったらしい。それどころか逆に、自分の授業時にミキちゃんと喋ったことや、そこから発展して彼女のキャラや、家庭のことを教えてくれた。ミキちゃんは3人兄弟の真ん中で、上には高校生の兄、下は幼稚園に通う妹がいる。妹は自閉症で、滅多に笑わない。そのせいか母親はノイローゼになり、最近抗鬱剤を飲むようになった。というか、それ以前に両親はバツイチ同士の再婚で、兄と父親とは血のつながりがない。妹は再婚してからの子だ。ちょうど思春期だし、父親との距離の取り方に戸惑っているんじゃないか、というのは笠奈の意見だ。
私はその話に、へえそうなんだ的な反応しかできなくて、笠奈は口には出さないが、え?それだけ?みたいな顔をした。私は慌てて「とてもそんな風には見えないけれど、いろいろあるんだね。難しいね。教えてくれてありがとう」と付け加えた。笠奈はううん、と首を振った。
しかし当然ながら、私はありがたがってなんかいない。それを知ったところで、何ができるわけでもない。確かに明るくてよく笑うミキちゃんからは、イメージしづらいエピソードではあるが、別にありえない話でもない。人として生きていれば、誰だって日の当たらない、影の部分が存在するはず、というのは私の意見だ。よって妹がおかしくて、母親もそれに侵食されつつある、と言っても何も私には影響を与えない。
と、偉そうに述べたが、実際はそうもいかなくて、ふと目に付いたワンピースの裾がほつれていたりすると、直してくれる人がいないんじゃないかと思ったり、いつも髪を1つか2つにまとめるが、本当は三つ編みにしたいのを、我慢しているんじゃないかと疑ってしまう。たまたま行った図書間では自閉症ケーススタディみたいな本を取ってしまう、前置きが長すぎてついていけない。休憩中にさりげなく、家族構成を聞くと、笠奈の言った通り兄弟が3人だと教えてくれるが、それ以上の情報が出てこない。まさかこちらから「お兄さんと血の繋がりがなくて、妹は自閉症なんだよね?」と聞くわけにはいかない。いや、実際は問題ないのかもしれない。笠奈は秘密にしてくれとは言わなかった。ちゃんと事前に家族の事を話してもいいか確認を取ったとも考えられる。私にもミキちゃんの相談相手になってもらいたいのかもしれない。
だが、やはり笠奈はそんな風に抜かりなく事を進める女とは思えない。浅はかで軽はずみなのが笠奈なのだ。例えるなら船底に穴が空いていても、無理やり船を出港させるタイプだ。穴は航行しながら塞げばいい。転覆さえしなければオーライだ。笠奈は私がミキちゃんに話す事はまったく想定していないだろう。もし私が話そうものなら圧倒的な感情に任せて私を罵倒するはずだ。
そのように考えた私は、当然ながらミキちゃんのダークサイドに触れるどころか、近づきもしなかった。好きな人トークも、念のためこちらからは切り出さない事にした。もっぱらテレビの話か、私の中学時代のエピソードを聞かせるくらいだった。ミキちゃんは、本当によく笑う。問題は何もない。
しかしある時、ミキちゃんの方から「先生、自閉症って知ってる?」と聞いてきた。左側を向いてまともに見ると、大人っぽい顔をしている。黄色いシャープペンの真ん中を大事そうに両手でつまんでいる。
「知ってる、かも」
「うちの妹、幼稚園行ってんだけど、自閉症なんだ」
え、とかああ、みたな曖昧な返事。
「全然笑わないし、話しかけても全然反応ないし。ちっともかわいくない。幼稚園でもいじめられてるみたい」
口ぶりから判断するに、ミキちゃんは私がその話を初めて聞くと思っている。だが、私はさらにその妹とは、父親が違う事まで知っている。この調子でいけばミキちゃんの口からそれも語られる可能性もあるが、私から水を向けるのは避けねばならない。もし知ってることがバレればミキちゃんは傷つき、笠奈の信用も失墜するだろう。笠奈はどうでもいいが、ミキちゃんが傷つくのは気の毒だ。というわけで、私は自閉症の妹という告白を初めて聞く演技をしなければならない。演技というのは大げさすぎるが。
実際知人の兄弟が自閉症、と聞かされれば驚くのが普通なのだろうか。私は過去に友人その他に、兄弟が自閉症であることを打ち明けられた時のことを思い出した。そんな思い出はない。だとしたら、似たケースを探し出し、その時のリアクションをサンプリングして合成しなければならない。いや、そもそも笠奈に最初に聞かされたのだから、その時の反応を再現すればいいのだ。覚えていない。あの時はひたすら笠奈の話に、心の中で毒づいていた。でも結局は笠奈が悪いということになる。あの時聞かされなければ、今こんな風に自然なリアクションに神経をはらなくて済んだのだ。
「あ、こんな暗い話してごめんなさい。ていうか、もう休憩時間過ぎちゃったよね?」
私が曖昧な態度で接しているせいで、結局ミキちゃんの方から話は切り上げられてしまった。時計を見ると確かに5分が過ぎている。塾内で休憩については、特に明確な決まりはなく、各講師の裁量に任せられている。私は90分の授業の中で、5分の休憩を2回とることにしている。何分たったら、と細かく決めているわけではなく、その時のタイミングで決めている。なので、話が盛り上がれば平気で10分近くお喋りする事もあるし、生徒の方から休憩を終わらせようと言ってくる事はまずない。
つまりミキちゃんは、私に対してある種の失望を抱いたということになる。実際、今の妹の話からは、何のメッセージ性も感じる事ができなかった。というか、話をちゃんと聞いていたのかも怪しい。とりあえずミキちゃんには、簡単だが時間ばかりかかる、少数がらみの方程式を一気に10問解くように指示をし、ミキちゃんの話を思い返す。ミキちゃんには妹がいる。妹は自閉症だ。そのため幼稚園でいじめられている。むっつりとした表情で大して笑わないから無理もないと思う。自分もかわいくないと思っている。以上。
それだけだ。
ここから無理にメッセージを読み取るとしたら、自分の妹をかわいいと思えないことに対する罪の意識、ということだろうか。だとしたら、血のつながりイコール愛情とは必ずしもならないんだよ、ということを噛み砕いて伝えればいいだろう。いや待て。父親が違うのだから、血のつながりの面では半分ということになってしまう。そうするとこのアドバイスは、血がつながってても愛しあえるなんて奇跡なんだから、繋がっていないなら愛し合うのは不可能、ということになり、だいぶニュアンスが変わってしまう。なので、その辺も考慮してアドバイスを練らなければならない。しかし、ミキちゃんの中では私は両親の再婚を知らないことになっているので、初めから理屈をこねるのも何か不自然な気がする。いっそ血のつながりの話をわざとして「私の親は再婚で・・・」と話を引き出すのもありなんじゃないか。私の論理がいかに付け焼刃で、その場しのぎであるかということが、よくわかる。
ややこしすぎる。
そもそも前提にあるミキちゃんが私の言葉を欲している、というのすら定かではないのに、ここでぐちゃぐちゃと考える意味なんてあるのだろうか。
というところでミキちゃんが「終わりました」と顔を上げる。早い。のではなくて、私が低劣な妄想に没頭し過ぎなのである。答え合わせをしながらミキちゃんの顔を盗み見る。自信があるのか口元に笑みが浮かんでいる。手元では先ほどと同じようにシャーペンを両手で持っている。両手で持つのは単なる癖のようだ。

授業が終わって席を立ち、奥の席にいる笠奈に声をかける。別に頼まれたわけではないが、勝手に送ってしまうと怒られそうだからそうする。でも自分だって毎週会ってるんだから、わさわざ話すことなんてなく、外に出て話すことなんて「お疲れ様」くらいだ。白い自転車にまたがったミキちゃんは、すぐに闇へ消えた。
笠奈と2人きりになると、すぐに先ほどの事を報告した。そして念のため「ミキちゃんの両親のこと、俺は知らないことになってるんだよね?」と確認した。
うん、そうだね、と笠奈は当たり前のように答えた。声のトーンから、私ほど緊張感がないのがわかる。私は「ついにきたか」と身を乗り出してくるものと思っていたので、肩透かしをくってしまった。だが、他に続ける言葉も思いつかないので「どうする?」と、作戦会議のような雰囲気で聞いてしまった。
案の定笠奈は「どうするって・・・」と言葉に詰まりながら腕を組み「まあいいんじゃない?」と私からすると、わけのわからない返事をした。笠奈からしても、わけがわからないんだろう。
私としては、ここでミキちゃんの闇にどう対処するかで盛り上がり、このまま2人で飲みにでも行こうと誘うつもりだった。が、笠奈の反応の薄さで、その目論見は見事に崩れてしまったわけだが、私としては最初からミキちゃんをダシにしているみたいで、なんとなく後ろめたい気持ちもあったので、むしろうまくいかなくてほっとしていた。と、考え心の平静を保とうと試みた。
だが、現実は進行しているので言葉がいる。
「このまま、ミキちゃんの相談とかに乗った方がいいのかな」と答えがわかりきっているような質問をし、予想通り「そうだね」という返事を得た。
「ミキちゃんはさ、君のことが好きなんだから、どんどん話聞いてあげた方がいいと思うよ」
またその話だ。でも、好きとひと口に言ったって色々ある。憧れの好きかもしれないし、家族的なものかもしれない。恋愛でも手をつなぐ好きかもしれないし、セックスをしまくりたい好きかもしれない。ミキちゃんとセックスなんてあまりに非現実的すぎるし、私のこの感覚は、決して的外れではないだろう。そう思うことにし、私はシンプルに「うん」と答えた。あまり露骨に否定するのは、かえって子どもじみている。
私の面白みのない回答に、会話は途切れ、笠奈は他の生徒の自転車の荷台に腰をかけ始めた。鉄製のスタンドがコンクリートを擦る音がする。私ももうそんなに笠奈と話をしたいとは思わなくなっていた。早く今日の分の報告書を仕上げて、家に帰りたい。笠奈に戻ろうかと声をかけようとすると、笠奈のほうが先に口を開いた。
「ていうか、今度の土曜って暇?良かったら2人で飲みに行かない?なんとなく」
この女は一体なんなのだろうか。