意味をあたえる

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十字路(10)

それからは、笠奈と2人で飲みに行くのが恒例となった。頻度としては月に1、2回程度。初めのうちは、飲んだ後に、もしかしたらホテルに流れるみたいな事もあり得るかと、無駄にコンドームを財布に忍ばせたりしたが、当たり前だがそんなのは杞憂に終わり、私達は木嶋や兼山にまつわるくだらない話や、ミキちゃんに関するちょっと真面目な話をしながら仲良く酔っ払ってバイバイするのが常だった。大抵は私が件の弁当屋の駐車場で、笠奈を拾って行くのだが、笠奈が学校に行ってる時などは、駅で落ち合って店へ入る。笠奈は免許も車、というか親に買ってもらった新車のホンダライフを所持しているが、通学の際は駅まで自転車で行っている。そんな時は私も律儀に、自転車で出かけ、帰りは2人で並走する。特に言われたわけでもないのに、忠実な飼い犬みたいに合わせちゃうのは、いかにも過ぎて自分でも恥ずかしい位だが、笠奈は「なんで車で来ないの?」みたいな意地悪は言わなかった。もしかしたら当然の事と思ってるのかもしれないが。
普段から塾でも顔を突き合わせているのだから、今更わざわざ一緒に飲む必要なんてない気もしたが、兼山から少しでも遠ざかるために、わざわざ塾の外で粘って暑さに耐える必要もなく、何よりも座って話せるのが楽だった。しかも一度店に入ってしまえば、短くても2時間はいられる。相手の反応に、常に緊張感満点で気を配りながら、焦ってどんどん話題を放り込んでいく必要もない。そのせいか、笠奈は普段よりもゆったり喋ってる気がした。甘えたような声になる時もある。酒が回ってくると、両肘をついて、ほとんど金に近い髪に両手の指を絡ませるのが癖だった。目もうつろになってくるので、眠いの?と聞くと「眠くない」と目を見開いて、こっちを見るのがお決まりのパターンだった。私はその瞬間が好きだった。
笠奈は大学では教職を取っていて、将来は英語の教師になるのが夢というか、目標だった。母親が学生時代に、留学したことがあり、その影響で小学校から英会話を習い、英語の成績は抜群に良かったのだ。試しに何か喋ってよ、と言うと「ハロー」と手を振ってきた。確かにそれっぽい発音だったが、私は馬鹿にされたような気がして、笠奈の「ハロー」をふざけて真似したら、頭を叩かれた。
チャンスがあれば、自分もアメリカかオーストラリアにホームステイがしたい、と笠奈は語った。大学内で、そういうカリキュラムがあって、定員に入れれば行けるらしい。とは言っても費用はこっちで持たなければいけないので、一応親からお金を出してもらうよう話をつけてあるが、こちらでも少しは負担しようと思いバイトを始めたのだった。それで見つけたのが今の学習塾であり、教師を目指す笠奈としては、子どもに勉強を教える経験にもなって、一石二鳥となる。
笠奈はそんな話をなんでもない事のように話した。たまに煙草に火をつけて、煙を横に吐き出しながら。煙草の銘柄はキャスターだった。白の刺しゅう入りの入れ物と全く合ってない。もう、禁煙云々の話はしない。
私はそれを一本もらって火をつけてもらい「でもそんな髪の色だと教師って感じしないよね」と冗談になるように気を遣って言った。煙草はひどくまずい。
「だって今だけじゃん。こんな風にできるの」
笠奈は前髪をねじりながら真面目に答えた。おでこにシワが寄る。上目遣いになって広くなった白目は、若干赤い。
飲み会を数回重ねるうちに、何故か後半はちぐはぐになることが多くなった。笠奈を知れば知る程、最初の印象とは違って、先々までちゃんと考えてるしっかりとした女である事がわかった。高校時代は、陸上部で県大会3位に入ったこともあるし、大学ではボランティアサークルに入り、たまに障害児の面倒を見てたりもするらしい。
ちぐはぐの原因は、要するに私が笠奈に引け目を感じているということだった。特に語るべきもない大学生活を送り、そして卒業した今でもまともな職につこうとしない私からしたら、笠奈は人生に一切の無駄のない、極めて効率的でスマートな生き方をする女性だった。話の序盤で働くこと云々について熱弁を振るったが、その全てが笠奈の前では子どもじみてくる。「もうすぐTOEICがあるからね。今日は図書館でずっと勉強してたんだよね」という話を聞くと「あなたはこの先どうしたいの?」と問い詰められているような、圧迫感を覚える。もちろんそれは私の被害妄想に過ぎない。笠奈はファジーネーブルさくらんぼをつまみ上げて、片肘でぼんやりとそれを眺めている。眠くないと言っていたが、疲れてはいるのだろう。昼間訳した英文を、頭の中で再放送しているのかもしれない。今日は私から声をかけたから、もしかしたら笠奈的には、あまり気乗りしないものだったのかもしれない。笠奈は疲れている。それは正当な労働を対価に得る事のできる、他人に誇れる種類の疲れだった。私は疲れてはいない。疲れる権利を有していないのだ。
何故そんな事を考えてしまうのか。私も酔っ払っているからだろう。大丈夫。ちゃんと自覚している。目の前にいる笠奈に、私は自分を投影しているのだ。本来あるべき自分。こうであってほしい自分。笠奈の姿をした私が、もう一度尋ねてくる。
「あなたはこの先どうしたいの?」
「わからない」と私は答える。だが、それは嘘だ。私にはわかっている。そして当然ながら、目の前の笠奈にもそれはわかっている。だってそれは自分なのだから。このまま黙っていたら「本当はわかってるくせに」と馬鹿にされ、見下されるだろう。どうにかそれを防ぎたくて、私は何か目先を逸らす言葉を探す。
「どうしたいか?・・・そうだね、じゃあ君と寝たい」
笠奈が吹き出す。普段は見る事のできない、酔っぱらいのする笑いだ。目を細め口をすぼめ、手でテーブルを叩き出す。その拍子に持っていたさくらんぼが手からこぼれ、笠奈の目の前の小皿に落ちる。それは、さっきまでサラダが盛られていたが今は空で、和風ドレッシングの残りがついているだけだ。その和風ドレッシングの水たまりの真ん中にさくらんぼは着水し、ぴちゃという音とともに外へ何滴かはね、その一つが笠奈のクリーム色のカーディガンについた。笠奈はまだ笑っていて、茶色い染みは徐々に大きくなるが、そのことに気付かない。私も教えてやるつもりはない。
「私としたいなら、してもいいよ。でも、できるかな~?」
身を乗り出し、バラエティ番組みたいなノリで、笠奈が挑発してくる。こちらも前かがみになれば、口づけのできる距離だ。私は僅かな笑みを浮かべ、笠奈の目をまっすぐ見て、可能な限り落ち着き払った口調で答える。
「できるよ」
芝居がかっているが、絶対に動揺を悟られたくない。笠奈は座りなおして背もたれに寄りかかり、煙草を一本取り出して口に加えようとする。が、指先が震えて落としてしまう。そしてそのまま顔を下に向ける。肩が震えている。笑っているのだ。段々と震えは大きくなり、笠奈はついに声を出して笑い出す。あはははははは。一度笑い出すと、歯止めが効かなくなったのか、顔を上に向け、音量がどんどん上がっていく。机が共鳴して揺れ出し、ファジーネーブルの細いグラスが倒れ、テーブル中にイエローがこぼれる。酔っ払いめ。私はすぐに店員に布巾を持ってきてもらおうと声を出すが、笠奈の笑い声が大き過ぎて、全く通らない。うるさすぎる。ついに天井からぶら下がった照明も大きく揺れだし、光の当たらない影の部分が生き物のように蠢きだす。危険を察知した私は、その場を離れようとするが、地震でも起きたかように床全体が波打ち、立ち上がることすらできない。笠奈の方を見るといつの間にか椅子の上に立ち上がり、巨大なスピーカーにでも変身したかのように、ひたすら大声で笑い続ける。テーブルの上の皿類は全部落ち、ファジーネーブルが端っこからぽたぽたと垂れる。店のあちこちから悲鳴や、食器の割れる音が聞こえる。

「寝ちゃった?」
気がつくと笠奈が私の顔を覗き込んでいる。その気になれば、口づけのできる距離だ。事態が飲み込めない。テーブルの上には皿や飲みかけのグラスが、何事もなかったかのように並んでいる。店内には、低い音量でジャズが流れ、平常事態であることをアピールしているようだ。店員も何事もないように行ったり来たりしている。
ファジーネーブルも、細長いグラスがどこまでも頼りなく見えるが、倒れてはいない。さくらんぼは笠奈の手からぶら下がって、左右に揺れている。クリーム色のカーディガンには、染みひとつない。
「本当に寝ちゃうとは(笑)今こうやって、『催眠術~』てやってたんだよ」
そう言って笠奈はさくらんぼを私の鼻先に、押し付けてくる。よほど引っかかったのが嬉しいのか、さくらんぼは実際に私の鼻にぶつかる。
「飲みすぎちゃった?それとも、疲れてるのかな?」
私の記憶では、笠奈の方がぼんやりしていた。なのに今ははしゃぎまくっている。子どものように、と形容したいくらいに。信じられないことだが、私は笠奈の目の前で寝入って、夢まで見ていたのだ。私は、疲れているのだろうか。
笠奈はメニューを取り出し、デザートを物色している。右手には、まださくらんぼがあったが、私はそっと手を近づけるとひったくり、間髪入れずにそれを口に入れた。