意味をあたえる

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十字路(18)

最初から薄々わかっていたが、笠奈は熱心にメールや電話をする女ではなかった。兼山に気づかれないようにと、塾でも声を交わすことはない。だが、これまではミキちゃんのことなどを普通に会話していたのに、これではかえって訳ありっぽくて怪しくないだろうか。そう思い声をかけてみると、きつく睨まれてしまった。
というわけで、私と笠奈は付き合う前よりも疎遠になり、私はかつての気軽に声をかけあって居酒屋へ行っていた頃が、懐かしくてたまらなくなっている。飲みに誘うのなんて、別に難しい事ではないし、一応正式には付き合ってる関係なんだから、そのハードルは本来ならもっと下がるのが当然だ。なのにどういうわけか、笠奈の都合とか感情とか、そういうことを考えてしまって二の足を踏んでしまう。距離が縮まると相手のことが見え過ぎて、かえって気を遣い過ぎてしまうのかもしれない。笠奈は教職を取っていて、毎日レポートや宿題に追われている。電話で話すと、今週締め切りの提出物が3つあるなんて言ってる時もある。私が大学へ行ってた頃とはまるで違う。私の頃はもっとのんびりしていて、1日に必ずどこかの授業料はサボったし、1年で登録した単位の7割も取れれば上出来だった。
「疲れた」と受話器越しにため息をつく笠奈に、適当な冗談を言ったり、まああんまり無理しないでマイペースに行こうぜ的な、何の助けにもならないアドバイスをかけたりする。笠奈はその度に笑ったり、礼を言うが、私にはそれが本心から発せられてる言葉に感じられなかった。
ようやく2人で出掛けようという話になったのは、付き合い始めて1ヶ月が経った頃だった。いつのまにか梅雨に入り、デート日和には程遠い天気の日が続いていた。それでも笠奈からどこに行く?と聞かれると「お台場がいい」と即答した。笠奈の反応は微妙だったが、「観覧車乗ったら楽しいかもね」と徐々にテンションが上がってきた。笠奈は以前夜中にドライブした時に、昼のお台場に行こうと言ったことなんかとっくに忘れているのだ。もちろんそのことを指摘すればすぐに思い出すのはわかっていたが、私は特に触れなかった。

昼の首都高は混んでいるだろうということで、車は駅前に停め、電車で現地へ行った。なんとか天気ももって割と無難なデートとなった。お望みどおり観覧車に乗り、ショッピングをしたりゲームセンターへ行ったりした。人混みが極端に嫌いな私は、他人の体とぶつかる度にどんどん気分が悪くなり、昼食をとった後で、海岸を散歩することを提案した。建物の外へ出ると、予想より強い日差しが出ていて、私は羽織っていた長袖を脱いでバッグにくくりつけた。邪魔で仕方ない。寒がりの私は、この時期に半袖オンリーで来る勇気がなかったのだ。笠奈は最初から白い半袖ブラウス1枚だ。ボタンに沿った縦のフリルがひらひらしている。私よりも笠奈の方が余程思い切りがいいように思う。
ふいに笠奈がバッグの中をまさぐり「ちょっと待って」と声をかけてくる。中から取り出したのは、紫色で手の平におさまるくらいの容器だ。
「塗ってきてないでしょ?君肌白いから。日焼けしちゃうよ」
そう言って右手をひねってキャップを取り、私に日焼けどめを渡す。そういえば、この日差しの中を歩いたら、帰る頃には顔と腕が真っ赤になって、下手をしたら皮も剥けるだろう。でも私はそんなことに頓着したことはなく、鼻の頭がずる剥けて、ようやく少し後悔するくらいだった。
だからと言って突き返すわけもなく、大人しくそれを腕と顔に塗る。笠奈が私のことをじっと見ているので、私はおどけた調子でほっぺたに塗りたくるが、笠奈は特に反応しない。仕方がないので容器を返しながら「笠奈は?塗ってあげようか?」なんて言ってみる。予想通り「家出る時に塗ってきたよ」と小馬鹿にしたような口調で返してくる。
「ていうか適当に塗りすぎでしょ(笑)ちょっと後ろ向いて」
そう言って笠奈は私の首筋と、腕の内側を丹念に塗ってくれた。前かがみになっている頭を眺めながら、意外と几帳面な女だと思った。知り合った頃に、ミキちゃんの授業についてあれこれ聞かれたことを思い出す。
最後に「おまけ」と言って、手に余った分を私の唇に塗った。乱暴に手を押し付けられ、薬品の匂いが鼻をつく。後ろにのけぞりながら、私がやめろと言うと、笠奈は大声で笑った。笠奈の笑い声は、高層ビルを反射しながら青空へ吸い込まれた。

さほどお台場に詳しくない私たちは、足が痛くなるまであてもなく歩いた。きちんと舗装された道や、砂浜、桟橋になっているところもある。かつて夜中に来たところも、雰囲気は全然違ったが、すぐにわかった。二階堂が休んでいたベンチや、笠奈がもたれかかって電話をしていた街灯もそのままだった。あの時は気づかなかったが街灯は、エメラルドグリーンの塗装が所々ひび割れ、剥がれている箇所もあった。笠奈もすぐに気づいて、懐かしいねみたいなことを言った。確かに懐かしい。
おそらくあの時笠奈が電話していたのは、兼山だったのだろう。打ち上げが終わっても、一向に電話を寄越さない笠奈に業を煮やした兼山がかけてきたのだ。
しばらく二階堂のベンチに座って、あの時の様子を思い出しながら、兼山と笠奈がどんな会話をしたのか想像したかったが、笠奈はまたみんなで来ようかと言った切り、すたすたと歩いて行ってしまった。笠奈の方も兼山と電話をしていた事を思い出したに違いない。おそらく。

日が傾き、手すりにもたれて海がオレンジ色に染まる様子を眺めながら、ふとミキちゃんに何かを買って行ってやろうと思った。笠奈に提案すると「いいかもね」と返事をし、再びショッピングモールへと戻った。屋根付きのモールに入ってしまうと昼なのか夜なのかわからなくなるが、確実に足は重くなり、午前中に歩いた時よりも地面が数段硬くなっているように感じる。
はっきり言って、中学生の女の子が何をもらって喜ぶのか見当もつかないので、笠奈の意見を参考にしたかったが、笠奈は「なんでもいいんじゃない?」みたいなスタンスであまり干渉せず、しまいには自分の服を見出した。私はもう少し真面目に選べよと注意したかったが、笠奈としてみたら、私が他の女のことを、あれこれ考えるのは面白くないのかもしれない。かつてはお互い妹のようにかわいがっていたのだから、そんなわけないとも思うが、他に理由もないのでその説で自分を納得させることにした。そうなると、この先ミキちゃんの話題は極力避けなければならない。私は目についた雑貨屋で雑然と並んでいる髪留めのひとつを手にとって買い、それをポケットに突っ込むと急いで笠奈の元へ戻った。そして、どのスカートがいいか悩んでいる笠奈に適当なアドバイスをして「適当なこと言わないでよ」と怒られた。結局笠奈は何も買わなかった。
夕食は地元へ帰ってきてから済ませ、私は当然のようにその後ホテルに行くことを期待した。エンジンをかけながら「いく?」と聞くと「今は生理中だからできない」と断られてしまった。体のことなんだから仕方ないと自分に言い聞かせたが、その日一日の疲れが一気に出て、運転席にそのまま沈み込みそうになってしまった。ヘッドライトをつけ、笠奈の家への最短ルートを模索しながら念のため「じゃあ帰る?」と聞くと「そうだね」と返事が返ってきた。笠奈の声なも疲れが混ざっていて、このまままっすぐ帰ることは、100パーセントの正しさを持った行為に思えた。
駐車場についても笠奈はなかなか降りようとせず、またこのパターンかよと思っていると、目を瞑るように指示された。なんとなくその後の展開を予想しながらそれに従うと、笠奈の唇が私のに触れた。コロンの匂いが鼻をつき、笠奈の体を支えるために、私の太ももには手が置かれている。私はそこに自分の手を重ね、力強く握りしめた。それは割と長い時間続いた。
唇が離れると、笠奈は私の頭を撫で始めた。目を開けると、笠奈の顔はまだすぐそばにあった。私の目を見ながら「ごめんね」と言った。どうして謝るのか尋ねると「だって悲壮感満載なんだもん」と笑った。それを聞いてうっかり泣きそうになってしまった私は「疲れただけだよ」と強がり、再び笠奈を抱き寄せて口づけをした。