意味をあたえる

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十字路(17)

3日後の夜中に笠奈から電話があり、私も君の事好きみたいと言われた。とりあえず布団を蹴飛ばしてベッドから降りた私は、電灯の紐を引っ張って明かりをつけ、その紐にしがみついたままかろうじて返事をした。笠奈はそんな私に構う事なく、とりあえず兼山さんと別れるから、そうしたら付き合ってほしいと言われた。笠奈の声は、完全に落ち着いていて、そのせいで保険の手続きの説明でも受けているようだった。私はかすれた声で「わかった」と答えた。寝起きだったからそんな声になったのだが、完全に覚醒していてもまともな声が出せたかはわからなかった。
そこまできて笠奈はようやく「寝てた?」と聞いてきた。改めて時計を見ると、3時10分前だった。

とりあえずミキちゃんには報告しておこうと、4月の最初の授業で話をした。予定通り笠奈が文系科目へ復帰し、ミキちゃんは既に笠奈の授業を一度受けている。兼山の部分だけは”今の彼氏”と置き換えて、あとはほぼ起こったことをそのまま伝えた。兼山の脂っこい顔を今の彼氏と形容するのは、いささか再現性に欠けるが、ミキちゃんのイメージを反らす為には丁度いい。兼山と笠奈の関係をミキちゃんに悟らせるのは、兼山だけでなく、笠奈にとっても致命的だ。
ミキちゃんはいつもの黄色いシャーペンを握りしめながら「やったじゃん」と大喜びしてくれた。この、思い切りタメ口な感じが我が事のように感じてくれてるみたいで、私の心も弾む。「まあ彼氏とうまく別れられたらだけどね」と、私は自分まで浮かれそうになるのを制したくて、わざとそんな事を口走るが、すぐに「そんなの関係ないじゃん」とかき消される。確かに私も関係ないと思う。
すぐに休憩が終わり、私は図形問題のレクチャーを始めるが、少しでも言い淀むとすぐに「今笠奈先生のこと考えてたでしょ?」とからかわれる。そんなわけねーだろ、と否定はするが、そんな風にムキに否定するとますます怪しいよな、と私の方が思ってしまう。私は本当に浮かれているのかもしれない。結局ミキちゃんに足を引っ張られまともな授業ができず、私は宿題の量をいつもより増やして仕返しをしてやることにした。当然ミキちゃんは泣き顔を見せるが「だってミキちゃんの成績下がったら笠奈に怒られるし」と言うと渋々納得した。
玄関に出た所で兼山の「さようなら!」が聞こえたが、私は振り向きもせずにすぐにドアを開け、ミキちゃんを外に出した。当分は極力兼山の顔は見たくない。歩道に出ると、隣の薬品工場の桜が満開になっていた。そこを笠奈と歩いたら気分がいいだろうし、それは今なら割と簡単に叶うことだった。と思ったら今すぐにその夢を叶えたくなる。が、笠奈の姿はない。先月は日本にすらいなかったので、1人でミキちゃんを送り出すのが恒例となっていたが、元々は笠奈と2人でやっていたのだ。正直うざいと思う時もあったのに、出てくる気配は全くない。気にはなるが、わざわざ呼びに行こうとは思わない。ミキちゃんも全く気にする様子もなく、しきりに笠奈とのデートはどこへ行くべきかについて私に提案してくる。ディズニーランドとかいいよね、とか。ミキちゃんには桜の存在も目に入っていないようだ。
そろそろ切り上げ時かと思い、それじゃあと言いかけるがミキちゃんに話をやめる素振りはない。先週までとは違い、だいぶ暖かくなってきているせいかもしれない。もうお花見だってできるのだ。時季の移り変わりに疎い私は、今日もここまでコートを羽織ってきた。流石に汗をかいた。
私は気まぐれを起こし、ミキちゃんに「帰り道を途中まで送ろうか」と言ってみた。そう言えば遠慮して1人で帰る可能性もあったし、本当にぶらぶら歩くのも悪くない気がした。
ミキちゃんは「えー。いいの?」と私の提案をあっさり受け入れ、途中まで一緒に歩くことになった。いくらなんでも家まで行ったら、1時間はかかるので、2つ目の交差点のコンビニまでという約束で。
私の予想通り、夜桜の下を歩くのは気分が良かった。ミキちゃんには悪いが、ここを笠奈と冗談を言い合いながら歩けばもっと楽しいだろうと思った。ミキちゃんは桜について待ってく触れない。やはり、まだまだ若いというか幼いと思ってしまう。私だって中学の頃は、桜なんてただの植物の一種でしかなかった。花より団子というより団子よりジャンクフードといった感じだった。
すっかり調子づいた私は、会話が途切れるタイミングを狙って「ていうか、そっちはどうなんだよ?デートとかどこ行くの?」と聞いてみた。私絡みの話はいい加減飽きてきたところだ。
ミキちゃんは私の方を見て、笑顔で「あー、別れちゃった」と答えた。気まずそうな感じはない。私に気を遣っているのか、彼女の中でとるに足らないニュースだからあっけらかんとしているのかはわからない。
え?いつ?とか聞きながら、確かサッカー部であった彼の名前を思い出そうとしたが、出てこない。ていうかそんなの最初から知らない。原因はなんだろうか。浮気か?中学生のくせに生意気な。そもそも中学生の付き合うは、どこまでの関係なのだろう。ままごと程度のものなら、別れるのは時間の問題だったのかもしれない。
ミキちゃんの話に、私はそうなんだ、みたいな相槌しか打てない。沈痛な面持ち満点だったのか、ミキちゃんは途中で笑い出し「ていうか先生テンション下がり過ぎ、ほら笠奈先生の顔思い浮かべて」と励まされてしまった。情けなさすぎる。
そのうちに予定のコンビニに到着し、私はミキちゃんにアイスでも買ってやろうかと思う。でも励ます、て感じでもないし、むしろそういう行為が相手を傷つけてしまうんじゃないかと一瞬戸惑う。うっとおしい。だが、ミキちゃんの方は店に入ろうとせず、駐車場の端にあるポストの前で自転車の向きを変え、私は確かに夜にいつまでも子どもを引き止めるのは良くないよな、と初めてまともな事を思う。
「妹の話したんだ、その人に。そしたら嫌な顔されちゃって。なんか一気に冷めちゃって。その場で別れた」
ミキちゃんは私の左肩の辺りを見ながら、笑いながらそう言った。冗談を言うような感じだったが、目は笑っていない。当たり前のように私の頭は一気に沸騰し、そんな男別れて大正解とか最低すぎるだろそいつとか、そういう男ばかりじゃないから気にしないでとか、そういうセリフが同時進行でポコポコ出てくる。私をもう2~3人増やして一気にまくし立てたい気分になる。
だが、ミキちゃんは私が考えているよりもずっと頭のいい女で、多分私が今のような気分になることはわかっていて、だからぎりぎりになって切り出したのだ。すぐに「それじゃあ先生また来週もお願いします」と頭を下げた。大げさ過ぎる頭の下げ方に、さすがの私もなんとなくミキちゃんの気持ちがわかり、うん、気をつけて、と手を上げた。
「先生と桜の下でお散歩デートしたこと、笠奈先生に言ったら怒られちゃうかな?今日のことは黙っていようね」
去り際にそんな事を言ったミキちゃんはいつもの感じで、私も「何言ってんだよ」とすぐに返したが、既にミキちゃんは自転車を漕ぎ出していて、私の言葉は届かなかった。

笠奈が兼山と別れるのは、かかってもせいぜい1~2週間くらいのものと思っていた。笠奈の気持ちを本人の口から聞いた私は、いわば仮契約の状態であるから大人しく待っているべきと考え、こちらから連絡はしなかった。電話をすれば催促してるように思われるかもしれないし、そういうのはなんか男らしくない気がした。男らしさなんて本当はどうでもいいが、やはり落ち着きがないのはみっともない。
だが、笠奈からの電話は一向に鳴る気配がなく、ついに1ヶ月が過ぎそうになっていた。私の頭は、マイナス方向の妄想で破裂しそうだった。ありがちなパターンは、兼山が別れを渋ってる場合と、笠奈の情が兼山に戻ってしまった場合だ。前者ならまだいいが(とは言うものの、やはりなぜそれを知らせないのかという疑問は残る)後者だとしたら最悪である。この場合、私が連絡しなかった事が裏目に出た事になる。電話をしない私の事を、その程度の気持ちと判断したのかもしれない。一方で、兼山が毎日別れないでくれと泣きながら懇願すれば、やはり笠奈としては、自分を求めてくれる人との方が幸せになれるとか考えるかもしれない。
そうなるともう居ても立ってもいられなくなって、ひと月前の日付の着信履歴から笠奈の番号を呼び出しそうになるが、今のは完全な推測である事に気付き、思いとどまる。そしてもう一度冷静になって考え、現時点で確実に言える事のみを残していくと、結局笠奈の気持ちが私か兼山のどちらに傾くかについては、笠奈の個人的な問題であり、私は一切介在できないという結論にたどり着く。つまり私が電話して「君を愛してる」と言っても言わなくても、笠奈が兼山を愛していれば、もうどうしようもないのだ。例えその時笠奈が「私も愛してる」と言っても、いずれは離れて行く。となれば私がここまで何もせずに指をくわえて待っているのは、間抜けかもしれないが、間違ってはいない。笠奈の「待ってて」という言葉を忠実に守っているだけだ。私は笠奈を信頼している。信頼している、というのは笠奈が信頼に値するかどうかよりも、私自身の気持ちがどこまで純粋になれるの問題なのだ。

何かが少しずつ変わっていた。笠奈はもう私がミキちゃんを見送る場面に、顔を出して来ない。まともな会話どころか、たまに姿を見かけるくらいになった。笠奈は白とピンクの中間の春用のコートを身につけている。ミキちゃんとの会話にも笠奈の名前は出て来なくなった。私は何度も、笠奈に振られてしまった事をミキちゃんに報告する場面を想像した。笠奈が返事をくれない苦悩を、素直に打ち明けようかとも思ったが、なんだか卑怯な気がしてやめた。ミキちゃんが笠奈の名前を出さなくなったのは、笠奈の方がミキちゃんに何かを相談したのかもしれない。だとしたら私が何かを漏らせば、ミキちゃんは板挟みになってしまう。
あと1週間したら電話をしよう、と思っていたら、あっさりとそれは過ぎてしまった。それでも決心がつかずにさらに3日が過ぎ、ようやくその日の夜に笠奈の番号をダイヤルした時は、もはや振られる気満々になっていた。いくらなんでも1ヶ月半も放置されるのは、希望薄と考えるのが自然だし、笠奈の中ではもう私との関係は、終わった事になっているのだろう。それを察しないでわざわざ電話で確認しちゃうのは、野暮丸出しもいい所だが、私としてはいい加減変な希望を断ち切りたいのである。あと半年もしたら全ての希望は枯れ果てるかもしれないが、それは時間の無駄だ。笠奈は私に愛想を尽かすかもしれないが、そこで関係が終わるのだから関係ない。
が、私の予想に反して笠奈はまず私に、謝罪の言葉をかけた。そして「付き合おうよ」と一気に話が進んでしまった。拍子抜けだ。ここまで間が空いたが理由も、私が電話して初めて付き合おうと言い出した事も、兼山も全部すっ飛ばされた。確かに笠奈はそういう女だが、やはり確認すべき所は聞きたい。というわけで手始めに「兼山は?」と聞いてみると「もういいんだ、別に」と返す。答えになっていない。私はそれはつまりどういう事?と問い詰めたいが、笠奈の言葉には、何か反論を許さない雰囲気があった。声が疲れている。笠奈は私が電話をして声を聞かせて、初めて私の存在を思い出したんじゃないかという気がした。
「なんか色々あって、ちょっと混乱してるんだ。だけど、君の事好きなのは嘘じゃないよ。久しぶりに声聞けて、なんかほっとして涙出そうだし。こんな女だけど、よろしくお願いします」
私が黙っていると、笠奈は一気にそう言った。何か言い訳がましかったが、確かに涙声だった。私はもう別に嘘でもなんでもいいやという気になっていた。笠奈が本当は私の事をどう思っているかは、いずれわかる事だ。
電話を切る直前になって笠奈は「これからは塾の中ではあまり会話をしないようにしよう。兼山は私と君が付き合う事は知らないけど、塾の男みんな疑ってるから」と注意した。その言葉が1番リアルで、私はその時になってようやくこの女と付き合うんだという実感が湧いた。