意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

私はスポーツに勝手に感動するし選手も気楽にやってほしい

私はオリンピックはなくなったほうがいいと思う側だが別にスポーツに感動しないわけではない。出来るだけバックグラウンドとか意識しないようにするが、それでも不意に涙を誘われてしまうこともある。そういうのは制御不能と考えた方がいいし、だから映画でも仕事でも同じなのである。本当は期待しない方がいいのである。

オリンピックの選手が気の毒に思える。人がコロナでバタバタ死んでも観客入れて開催してほしいと主張してほしい、という意見を読んだが、そんなことを考える選手はいないだろう。今まで世論を手の内にしようとしたんだから、そこまで貫いてほしいという意見なのだろうが、私は情状酌量の余地はあると思う。「世界は変えられない」という言葉が実感のこもった、自分の無力さを思い知った風に見えた。結局ネットは怖いという話になりそうだ。

私がスポーツに期待しないというところに行き着くのだろうか。感動を届けると言われてもぴんとこないのである。だから「できないじゃなくて、やれる方法を考えよう」と言われても、選手は大変だなあくらいにしか思わなかった。エゴが見え隠れしても、スポーツ選手の人間性に期待する方が間違っているし、なんなら人間くさくて良いとすら思える。そこで、何人死のうが俺の人生のために開催、という主張は臭すぎるのである。

ミュージシャンが政治的発言をしてがっかり、という場面があるが、やはり私たちはそれを教訓ととらえ、あくまで感想は表層のみにして、中身やバックグラウンドと区別する訓練をすべきである。選手を応援する気持ちはなくても、応援するパッケージのチョコレートを買わなくてはいけない