意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

書かねばならないと思うとき

高校の修学旅行へ行って帰ってきた後、覚えていることを書き出したい、と思いノートに文章を綴った。書かねばならない、と強く思った。書き終わったら読み返すわけでもなく引き出しにしまい、そのままどこかへ行ってしまった。誰かに見せたいとか特に思わなかった。それ以外にも学校を卒業するときなど、教師に長い手紙を書いたりしたが、出すこともあったし、そのまま捨ててしまうこともあった。


文章が書けないと嘆く人は、そういう体験のない人ではないかとふと思った。これは文章に限った話ではなく、漫画でも、スノーボードでも同じことだと思う。結果とか意識せず湧き上がる欲求に自らが戸惑い、半ば諦めるようにそれに従うのである。そういえば私の行動は理解できないとよく周りの人に言われた。それは幼稚な自己アピールのこともあったが、やっぱり私自身も理解できないケースもあった。


資本主義なのか会社組織なのかはわからないが、そういうシステムに組み込まれるとまず結果ありきで、だんだん個人の動機はどうでもよくなってくる。私も昔は自分で考えなければ、日一日をつぶすのが難しかった。友達も少なかったから、提案してもらうこともあまりなかった。だから自分の欲求に耳を傾けることができた。それは大きな声の時も、小さな声の時もあった。大きな声に従うようになると、小さな声が聞こえるようになった。それがだんだんとなくなってきた。