意味をあたえる

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書くことには意味をあたえない

「それは書くに足らないことですよ」2022年1月23日(日) - 何を書くか、何を書かないか。

あらいのさんの「書くには足らない」という言葉に懐かしさをおぼえた。私も同じことを主張した気がする。結論から言えば書くに足らなければ書かないほうがいいのである。「結論から言えば」なんて馬鹿みたいである。結論というのは最後という意味合いだが、その前にくる論などないのである。だのになんで人は「結論から言えば」なんて言ってしまうのだろう。「そして」とか「しかし」みたいな言葉なのだろう。


「書くには足らない」という言い回しは小島信夫みたいである。小島信夫は「書かずに済めばそのほうがいい」と書いていた。書いてないかもしれないが同じことだ。「同じことだ」というのは山下澄人深沢七郎の本の解説で書いていた。つまり物語、まあ主張でもなんでもいいけどそれらは常に受け手側に存在するということだ。


あらいのさんの話はとちゅうからよくわからなかったけど、私が一方的に要約すると社長になり損ねたという話ではないだろうか。「経営」という言葉が頭に残った。今日の昼間たまたま「ぴよぴーよ速報」というユーチューブの動画を見ていたらカール・マルクスが出てきてカール・マルクスが新卒の面接に現れるとうう設定で面接官から
「弊社の志望動機はなんですか?」
と訊かれ、マルクスが大真面目に
「私が御社を志望する動機は革命を起こすことです」
と語っていた。どうして革命を起こすのに就職するのかは意味不明だが物陰からエンゲルスが心配そうにその様子を眺めていて私は心の中で(星飛雄馬のねーちゃんかい!)と突っ込んだ。この文章のエンゲルス以降は嘘です。


それでもうこの記事は書くことがないから公開しようとしたらタイトルの「書くことに意味はあたえない」というのが目に入って、私はあらいのさんの文章を読んだときに実は最初に思ったことがあってそれは「書くに足らなくても書いたのならそれはあなたにとって意味があったんですよ」という内容だったことを思い出した。もちろんそんなのは大きなお世話なのだが、私はそういう発想が私を文章という物から遠ざけていることを悟って、なんでも意味が求められてしまう現代の世の中において、文章だけは除外したいと切に願ったのである。


私はあるお店のそのお店の特長をしめす情報を記したのぼりが不意に風に煽られて裏返しになり、そのときまったく別の意味の文句になったのを目の当たりにして「意味をあたえる」というタイトルを思いついた。意味が主観によって左右されるとでも言いたかったのだろうか。もちろんそんなことはまったく意識せずに記事を書いてきたが、ここにきて「文章だけは意味をあたえない」という知見を得て、なんだか最終回になった気分である。