意味をあたえる

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劇団四季「コーラスライン」

昨日浜松町にある劇団四季のミュージカル「コーラスライン」を友人と見てきた。私は去年にも同じ場所の「ジーザスクライスト・スーパースター」を二回見たから、もうミュージカルが趣味だと言ってもいいかもしれない。しかし何年か前に家族と「ライオンキング」を見たときは、途中でかったるくなったので寝た。あるいはそれは私の中では家族サービスであるから、連れてくるだけで私の役割が終わったと、私は解釈したのかもしれない。それと、私は終わった後子供や妻に居眠りしたことをなじられたから、そういうのもサービスの一種だった。

だけれども「ライオンキング」以外の二作は、実は高校時代の音楽の授業で映画バージョンを見たことがあり、私はそれらをとても面白いと思ったからまた見ようと思ったのである。私は「ジーザスクライスト」がとにかく好きで、教師にリクエストしたこともあった。友人は「コーラスライン」が好きだったが、私がリクエストしたから遠慮したのだ。友人はあと、「ヘアー」というベトナム戦争の志願兵と戦争に反対するヒッピーが仲良くなって入れ替わって遊んでいたら、手違いでヒッピーが戦争に行ってしまうという間抜けというか、哀しい映画が好きだった。私もヒッピーが調子こいて点呼に返事したら、
「これからベトナムへ行く!」
と上官が言い出して、真っ青な顔して飛行場を行進するシーンを覚えている。しかしそれは劇団四季ではやっていないようだ。

コーラスライン」はダンスのオーディションの話である。最終選考に残った十数人の男女が自分たちの生い立ちやダンスを始めたきっかけを語り、最終的に半数が落とされる。落とされる場面にはちょっとした仕掛けが用意されており、痺れる。私は映画でそこの仕掛けは当然知っていたが、生で見たらやはり痺れた。2時間半という長い舞台で、私は途中から疲れて少ししんどくなったが、それは舞台上の人々も同じなのでそれが感情移入につながった。それは演技している人の肉体が疲れるということではなく、ストーリー上でもオーディションは1日かけて踊ったり語ったり緊張したりなので、登場人物たちもヘトヘトになって、後半はそういうことを口にする、という意味だ。タップダンスの最中で膝を痛めてリタイアする人もいた。それはプエルトリコ人で、同じプエルトリコ人の仲間が
「彼は軟骨がおかしいの!」
と絶叫していた。彼女は受かった。リタイアしたプエルトリコ人はゲイだった。もちろん演技している日本人の軟骨がおかしいわけではない。

というわけで、感情移入した私は全員に合格して欲しかったが、半数は落ち、そこで話は終わる。前にも書いたが、この選考発表のやり方にちょっと仕掛けがあって、私は痺れたのであった。しかし落とされた側からすると、残酷な感じがしたが、それが演出家の敬意であるから、やがてはそういう演出家の“粋“に気付く日がくるのかもしれない。しかしそのときにはダンサーも廃業してしまった人もいるだろう。落とされた人の中には三十を過ぎたり、子供が二人いる、と言っている人もいたから。私も今は二人子供がいて、高校の時は、あまりこの合否のシーンを今のようには捉えなかった。コーラスラインとは脇役と主役を分けるラインを指すらしく、脇役はこのラインを越えてはいけないらしい。彼らは、脇役のほうのオーディションにやってきたのだった。

この舞台は舞台の人たちを描いた話であるから、私が「彼ら」という言葉を使うと、自然と二重の意味になり簡単に混乱が起こる。私は特に前半はその混乱を楽しんで見ていた。後半は割と夢中になった。涙ぐんだ場面もある。この舞台に限らず、ミュージカルのおかしいところは、やさぐれた人とかやる気のない人などが出てきても、いざ音楽がかかるとフルスロットルで踊ったり歌ったりするところだ。表現するところの“表現“が美しいとか格好いいとかしなやかとか、そういうポジティブなものしかない。私は最近このブログでもドラマについてどうこう書いたが、それは結局この舞台で考えることにつなげるための準備だったんだと解釈した。

話の最後はオーディションの合否が出て終わる、と書いたがその後全員が金ぴかの衣装を着て、話の中で練習していた歌と踊りを披露する。全員、とは受かった人だけでなく落ちた人や演出家も含まれる。演出家は若かった。だからやはり私は混乱してしまう。この金ぴかダンスの現実は、ストーリーの現実とは地続きではないのだ。そして当たり前だが、役を勝ち取るためのダンサーの役をするダンサーの現実とも、別なのである。

だから構造的に見ていくとこのミュージカルは楽しそうだ。この話は最終選考に残った人々の半生やらが語られるシーンが大半を占めるが、それは小説のように回想として語られるのではなく、演出家が舞台に全員を並ばせ、順番に語らせる。語った分だけ物語の中の時間も経過する。十何人の半生が並べられることによって各人が相対化され、なんとかなんとかって感じなのだ。文学で似たような話を聞いたことがあるが、私は構造に今はあまり興味がないから端折る。そういえば彼らが並ばせられるのは「コーラスライン」上であり、自分の語りをするときだけ、前に出るように言われる。そういうのも皮肉の一つなのだろうか。

ところで私は、登場人物の女のひとりが踊る姿を見て、強烈な
「この人は朝ウンコをしてきたに違いない」
という直感を見舞われた。今でもそうだか知らないが、役者というのは役に入り込むために台本では語られない設定など(好きな食べ物、血液型、など)を考えるが、その中に今日は朝ウンコをしてきたかどうか、という項目もあるらしい。その話を突然思い出し、思い出したということは、その人は朝ちゃんとウンコをして舞台に立ったということだ。その役の女がそうなのか、それとも演じている女優がそうなのかはわからないが。