意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

サラリーマンやってます

会社というか組織というかそういうところはより効率的になって生産的になることが良しとされていて成長が持て囃される。私はそういうこととは無縁に生きたいと思っていたがやはり成長の魅力に抗うのは難しい。私は学校を卒業してからもしばらくはアルバイトをしていてコンビニの店員をやっていたがスーツを着た会社員がいつも偉そうにしていたのでどれだけ偉いのか知りたくて就職をした。もちろん他の理由もあるが私は就職氷河期の世代だったから会社勤めしていなくても「不景気だから仕方ないね」と思われる節があって楽だった。


私はできるだけ楽な仕事がしたいと思いながら就職先を探したが、運良くそういうところを見つけるところができた。しかし毎日早く帰れたりするのは良かったが段々とマンネリ化してしまった。それで結局辞めてしまったわけだがこれは結果的に失敗だった。もっと稼ぎたい、と思ったら楽さが抜けてしまったのである。神田川のそばで泣きながら仕事をしていたのがどん底で、そこから徐々にまた楽な仕事にシフトするようになった。


今の会社は入ったときは本当に楽だったが途中で社長が替わってそこから徐々に締め付けが強くなってきた。しかも私の中でまたマンネリ化してしまい、そろそろ転職でもしようかしらと思っていたら別の仕事にも関わることになってマンネリしなくなり、退職も回避されて今に至る。

頭痛

休みだったがすることもなく寝ていたら頭が痛くなった。そういえばここのところ頭が痛くなる頻度が高い。年を取ると常にどこかしらが不調というアレだろうか。花粉症も本格的に症状が出てきた。ここ2年は薬も飲まずにやってきたが今年は飲んだ方がいいかもしれない。会社の人に「コロナでマスクしてるからいくらか楽」と言ったら「花粉症なのにマスクしないんですか?」と驚かれた。そう言われるとマスクしてたかもしれない。しかしコロナ前はマスクをすると耳が痛いしで極力マスクはしないようにしていた。花粉症なのにマスクをしないのは自殺行為かもしれない。今は家でもマスクをしている。


午前中に自転車を買った。自転車を買いにホームセンターに行く途中にたまたま自転車屋を見つけ、店頭に安いのがあったのでそのまま購入した。店主は白髪交じりの初老の男性だがそのお母さんの思われる老婆が歩行器を押しながら私に挨拶をしてきた。私のすぐそばに解体された自転車があり、いかにも「メンテナンスしてます」というかんじだった。いい雰囲気の店だった。

用事は楽しい

歯医者にあるとき行ったら「親知らずを抜いた方がいい」とアドバイスされた。ただし私の親知らずは埋没しているからその歯医者では処置ができないのでと、口腔外科を紹介された。とても腕のいい先生だと言う。歯医者を替えるなり言われたから最初は聞き流していたが行く度に言われるからいよいよ紹介状を書いてもらった。とても物腰がやわらかくてもちもちした男の先生で、子供の頃に通ったどの歯医者とも違うタイプだった。こういうところも時代が変わったのだ。義理の父親は「愛想のいい歯医者は腕が悪い」と理論をよくかざしていたものだが。確かにこの医師の本来の実力はわからないが、受付の女が愛想が悪く保険証も返してくれないので、医師自体はとてもいい人なのでは? と思えるようになった。


そんな人の良い歯医者から紹介された口腔外科はバスと電車を乗り継いだ先の都内にあった。会社を早退して向かったが、初っぱなから乗りたいバスが来ないというトラブルがあった。15分待って諦めた。偽の停留所だったのかもしれない。今日は気温が高く私は途中でコートを脱いだ。向かいは豪邸で私の上司が「あそこんちはヤクザだよ」と噂する家なので私はいよいよ居心地が悪かった。


仕方なく別のバスに乗って大回りで行ったものの結局そこの医師にも「手がつけられない」と処置を諦められてしまった。これまた人の良さそうな医師で、前述の歯医者とはタイプが違うが体格が良くて熊のような外観だった。もしかしたらこの人たちは同じ部活(ラグビー部等)で汗を流した仲なのかもしれない。そうすると「腕がいい」というのは眉唾だがとにかく「申し訳ない」と平謝りするので悪い気分にはならなかった。


結局無駄にバスと電車を乗り継いだだけに終わったが初めて見る街並みをじゅうぶん楽しめたので良かった。

上京2

会社にはいろんな人がいる、と書いたがこの場合の会社とは固有名詞で一般名詞ではない。つまり同じような人ばかりの会社もある。いろんな人がいる会社の場合、働きの良い人と悪い人がいる。悪い人のことを「上京したばかりの田舎の人」と表現している人がいた。つまり都会の人は行き先や手順がはっきりしているから行動も早いが、その中に明らかにふらふらしている人がいる。働き蟻の中に怠け蟻がいるのと同じなのである。見れば明らかでも近くにいると案外気づかないのである。否、私が気づかないだけなのだ。周りは気づいていてもわざわざ口にしないのである。


蟻で考えると怠け蟻を無理やり働きにしても別の怠けが発生するからやっても意味ない気がしてくるが人間なので対策を講じなければいけない。あるいは講じているふりをしなければいけない。何故なら働きの一部が嫌になってしまうからである。働き蟻も怠けを見たら餌を運ぶのを嫌になってしまわないのだろうか。蟻の脳はそんな風にできていないのだろう。私たちは自分よりも楽をしている人を見ると負けたような気がしてしまう。負けたっていいじゃない、損してもいいじゃないという励ましがあるしその通りだが、その通りとなる前にいったん「ずるいな」という感情を経由しなければならない。

上京

会社にはいろんな人がいて日々振り回されている。気分屋のおじさんがいて機嫌を損ねると口もきいてくれなくなってしまう。損ねていないときは冗談ばかりだから無口になるとすぐに何かが気に入らなかったんだとわかる。猫を飼っているそうで、自然と猫みたいな性格になってしまったのか。他にも顔は梅干しでも猫みたいなおじさんはいる。みんな誰かにかまってほしいのか。しかし誰かが機嫌を損ねると誰かが上機嫌になるのが集団である。一時期怖い顔をしていたおばさんが今はニコニコしている。「あの人は大ざっぱすぎるので私から見えない席にしてほしい」と言っていた人が当のその人といつの間にか仲良くやっている。時間はすべてを解決しないがそれなりに力を持つ、というのはある程度年をとらないとわからない。私は気分転換が苦手である。

一日を振り返って

そういえば金曜日は休みを取って市役所まで歩いていった。市役所は街の中にあり久しぶりに行ったら色んな景色が変わっていたがもう何が変わっていたか思い出せない。家に帰ったときに家の前に妻の友人が犬の散歩ついでにやってきていて、その人に「ずいぶん変わったね」と言ったことだけ覚えていてだから変わったのだ。市役所の職員はびっくりするくらい寡黙に仕事をしていてそれは窓口の前に大勢の人が待っているからで、そう思うとなんだか気の毒な気がした。私なんかは仕事をするときはもっと騒がしいし誰かの悪口ばかり言っている。悪口も私なりのエンタメ性は維持しようと思っている。必ず自分のターンで終わらせたがる人がいて、でも上司だから適当に話を合わせている。そういうことができない市役所の人はかわいそうに思えるが見えないところではいい感じにやっているのかもしれない。私に応対してくれた人は最初の人は馬鹿に丁寧だったがその後の人は愛想がなかった。それを夜に会った父に話すと
「昔より良くなったはずだけどなあ」
と首を傾げた。もちろん「お役所対応」という言葉があった昔よりは全然いいと思う。


私の会社にもお役所対応的な部署があって話をするたびに嫌な気持ちになったが段々と社内で問題になってあるとき解体された。一部署なのに一種の宗教味があって例えば「お疲れさまです」が禁句なのである。さらにディープなところに行くと話をするだけで「どうしてそんな質問するのかわからない」と上から言ってくる。最初の1、2回は私も怯んだが相手の出方を知った後は「次こそガチンコで言い合いしてやる」と意気込んだが次は訪れなかった。社内でその部署の対応が問題視され責任者が謝罪する事態となった。ディープな人たちは辞めるか異動となってそれから関わることがなかった。残った人は比較的まともでコミュニケーションに余計なコストを払わずにすんだが、それでも癖が抜けないような人もいる。実害はないものの会議での話し方を見るとどうしてこんな感じの悪いしゃべり方をするのだろうと不思議に思ってしまう。常に上から目線でしか物事をとらえられないようである。

野性味

自分のゴミも捨てない夫のようにならぬよう息子に家事を教えてきたのに、結婚後の息子は家事をしない夫になってしまっていた話「子育て難しい」 - Togetter

何度も書いたけれど昔見たテレビ番組である母親と娘が出ていてこの母親がいわゆる過保護というやつで娘の趣味の集まりにも一緒についていくというかんじで何でもかんでもお世話してあげてスタッフも呆れて「なんでそんなに過保護なんですか?」て訊いたら「私もそうやって育てられたから」と答えていてそれが私の教育観にもなった。私の家はとにかく妻が理不尽だと私は思っていたから自然と私が過保護君になってしまう。私までガミガミ言ったら気の毒だと思ってしまう。さすがにこれくらい自分でやってくれよと思うときもあるが私の機嫌が良ければやるし良くなければ放っておくようにしている。


もちろんそれが正解だとは思わない。しっかりしつけてできるだけ将来への選択肢が多い状態で社会に送り出すのが理想だと思う。私はしかしそんな風にはできなかった。私は子供の頃にもっと親に勉強しろと言われたり塾にやってもらえれば良かったと思うときがあるが私の親は好きにやらせるという教育方針だから仕方がなかった。私はどういうわけか何に対しても熱中できない性格になってしまった。当然子育ても同様なので結局は「まあ何でもいいんじゃない?」というスタンスになって私の親と同じになってしまった。


世の中には寝ているとき以外は常に活動しているというエネルギッシュな人がいるが私はその逆でじっとしていることを好む。虫とか動物も余計なエネルギー消費を抑えるためにじっとしていることが多いと言うので、そういう意味では私は野性味があふれている。仕事のときはもちろん怒られない程度には活動するがそれも食料を求めて動物が動き回るのと同じである。一時期ミニマリストというのが流行ったがそれは所有のことであり本人は余計なムーブが多い。しかも流行って廃れたのだから多くの人は周りの人がやってるからみたいなかんじだったのだろう。しかしそれも鰯の群が乱れずに泳いでいくのと似ていて野性味がある。私はしかし何も考えずに無為に生きるのが野生だと思う。子供のことも特に大人になったら思索の外に置くのがよろしい。